大阪南の小さなバーでバーボンを
昨夜は決起会合の食事会のあと南に流れていつものバーに行って、バーボンを飲んだ。
いい店だ。憧れだなあ。
いつも物静かなマスターが昨夜は初めてこぼれるような笑顔で、昔の漫画の話で盛り上がった。
やっと客として認めてもらえたんだなあ。
混んだら困るので名前は書かない(笑)
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昨夜は決起会合の食事会のあと南に流れていつものバーに行って、バーボンを飲んだ。
いい店だ。憧れだなあ。
いつも物静かなマスターが昨夜は初めてこぼれるような笑顔で、昔の漫画の話で盛り上がった。
やっと客として認めてもらえたんだなあ。
混んだら困るので名前は書かない(笑)
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道頓堀のくいだおれが閉店するという・・・・
大阪の人間にとっては衝撃のニュースだ。
60年前・・・僕はあのくいだおれの前で迷子になって泣いて走り回っていた記憶がある。
家族でそこに来ていたのだがあまりの人ごみではぐれてしまったのだ。
あまり家族で食事なんて習慣はなかったのだが、目覚しい復興の時代、みんなが年に一度の「よそ行き」をきて南に見物に行った・・・なんて事であったに違いない。
そんなことが大きな庶民の楽しみの時代であった。
以来南は青春の光と影を写しながら共にあったのだ。
一軒一軒の町並みを思い浮かべることができる・・・・・・・・・・
30年の飲食業をやってきた僕にとってはそのくいだおれが時代に取り残された結果閉店することに複雑な思いである。
チエーン展開をせず家族経営を守ってきたことが時代に合わなくなったといえるのだがいさぎよい決断だったともいえる。
なかなかできることではない・・・・・そういう意味では、すごいよねえ。
そういう経営だから従業員の今後についても責任をもって対応してくれるにちがいない。
お疲れ様でした。
P.S.
あそういえば今日淀屋橋の吉兆本店の前を通ったんですけどそれで思い出したことがある。
くいだおれの閉店記舎発表では会長である女将と社長が会見したんですよね、
そして社長がしゃべってその後記者が会長に「何か一言!」って言ったとき会長は「ひそひそ話したらいいんですかねえ・・」ってすがすがしい笑顔で流してた・・・・いさぎよし!・・・本物の浪速商人やねえ、わかるかなあ。

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太平洋戦争が始まって翌年サヨは男子を産む。
文子が生まれて8年後のことで、惣七は3日間祝杯をあげ続けたという。
底辺をはいながら生きてきた二人にとって男児をもうけるということがいかに大きな出来事であったかということであった。
その間も大日本帝国軍は連戦連勝で大東亜共栄圏を着々と広げていた。
昭和の時代一番世界の覇者に近いと民衆は思わされていた時代だった。
「昭夫」となずけた。
惣七は喜びで飲み続けてその後2日間倒れ死地をさまよう。
生還して酒タバコを断ち我が子のために懸命に働き貧しいが笑いの耐えない家庭をきづいていった。
惣七一人が本家の血筋をつなげたという誇りが「俺は勝利者だ」という口癖となっていった。
太平洋戦争は長引いていった。
真の国力のなかった日本はたちまちいきづまった。
徐々に庶民の間にも負けるのかもしれないという思いが蔓延していった。
文子が鹿児島坊津沖を巨大戦艦の大和が南下していくのを見るころ、サヨは文子を呼び戻す。
敵国が日本上陸して殺されるのなら、家族一緒にいたいという思いであったという。
サヨの妹の「はや」は昭夫と同じ月に生まれた「勝宏」と文子を連れて3日かけて大阪までやってきてその後みんなで徳島の惣七の本家を頼って疎開する。
戦地に赴いた「正秀」やはやの夫は共に靖国のみ柱となって帰ってくる。
はやはその後そのまた妹「スエ」を呼び徳島山奥に住み着くことになり鹿児島に生涯帰ることはなかった。
やがて日本は敗戦を迎える。
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サヨが住む魚行商のおばあさんの2階部屋に惣七は転がり込んだ。
安治川の日立造船で日雇いを続けその飯場(宿舎)で大きなばくちをして一人勝ちをする。
そういう場合、負けたものが取り戻すため負けるまでそこにい続けることになるのだが、惣七は一夜でそこを抜け出しその金を元手に、バラックの飲み屋をする。
大阪港に出入りする貨物船の客が雑貨品がなくて困っていることを知り、手漕ぎの伝馬船を買って雑貨品を運び港内の停泊する貨物船に上がり通路に並べて販売をする。
惣七とサヨは懸命に働いた、やがて女子を産む・・惣七は「文子」となずけた。
父「文平」(ぶんぺい)の一字をもらった・・・それはその血筋を受け継ぐものであったのだが、出来るのであれば
「文七」とでもなずけたかったに違いない、・・・そういう時代であったのと、自分だけが嫡男として受け継ぐ可能性を思っていたのだろうか。
しかし、その後男子を授かることはなく、その日暮らしの生活が続き40歳を越えて酒に溺れる日が増えていった。
時代は日中戦争、日独伊三国同盟、と続き、そして1941年12月太平洋戦争が勃発した。
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惣七が戦争から戻ってきたとき、森田の娘は亡くなっていた。
その後彼は黙々と木を切り、きんまに乗って木を運んだ・・・。
その働きは誰の目にもすばらしく、誰もが家を継ぐものと思っていた。長男は出奔し、三男正秀はまだ小学生。
しかし継母はすべての実権を握ってますます過酷な仕打ちを前妻の子供たちにする。
家がほしいから働くんだろうと言いふらせらることに絶えられなくなり惣七は故郷を捨てる。
着の身着のまま家を後にし切り立った山の斜面の一人がやっと通れる細い道を下っていくとき学校から帰ってくる小学生の妹マツノと正秀に出会う。
「あんにゃんどこいくの?」
「あー川口までいってくんかんな・・・おふくろ大切にしろよ!」
人をうらまずただひたむきに生きた男であった・・・・・・
その後残されたマツノと正秀は、家を出て遠い親類宅をたずねる、しかしみんなが貧乏な時代、馬屋で生活するが食事も与えられず、米ぬかをすすって生き延びる、
正秀は「ねえやんおいしいで」といって食べた・・・・ずいぶん時代がたった後マツノがこの話を昭夫にしたとき号泣した。
正秀はその後蛍雪の苦学をし部屋は専門書で埋まっていく、誰もが彼が未来を築いてくれると信じていた。
そして太平洋戦争で召集され輸送船に乗ってフィリッピン沖で魚雷に撃沈され海の屍となった。
戦後、生き残った戦友が、山奥に尋ねてきて、その最後を聞いて、マツノだけが泣いた。
マツノが嫁いで、継母一人残った家は遠い親戚の娘を養女にとり、養子を迎えて、男系の血筋をなくす。
故郷を捨てた惣七はその後、船乗りとなり世界を回り船を下りて日雇いの仕事を渡り歩き、酒とばくちに明け暮れる。
ある日、魚の行商のおばあさんが宿舎に来て親しくなる。
「あんちゃん、所帯持ったほうがええ、働き者のいい子がおるよ」
時代は昭和に入り、中国を舞台に列強のしのぎあいが始まっていた。
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徳島の山奥・・深い深い急峻な山の頂近くの家に惣七は文平の次男として生まれた。
平家の落人がその源流浅岡家の分家され文平は一帯の山を治めていた。
文平の一人目の妻は一男をもうけたが本家筋の跡取りとして養子にやられたあとその妻は病死する。
あわてて後妻を娶り、長男、次男惣七、長女マツノ、3男正秀をもうける。
跡取りは磐石と思われていた。
しかしその妻も正秀を産んだあと、病死する。
亦も文平は後妻をとる。そのあと文平は没し、子のない後妻がその財産を受け継ぐ。
そして前妻の子供たちにいわれのない仕打ちを始める。
長男は北海道に出奔し一家を構え成功を収めるが子供ができずその血筋は途絶える。
残る次男惣七はひたすら働き一家を支える。
村で一番のきこりとして聞こえやがて山二つ越えた村の庄屋の森田の娘と恋に落ちる。
村で評判となるのだが、時代は第一次大戦が終わり中国の租界政策が世界の紛争をきたし日本軍のシベリア出兵となり惣七は縫製兵として召集された。
報われることのない進軍を経験しやがて任務を終える、村へ帰ってきた惣七に知らされたのは森田の娘が亡くなったという知らせだった。
その後ずいぶん時代が変わり彼が家族を持ち、何度か山奥の村へ自分の息子昭夫を連れて帰ったりしたとき誰にも知らせず一人山を二つ越え森田家の墓へ行っていたことを息子が知ったのは惣七がなくなった後のことで、
惣七がなくなっても泣くことがなかった昭夫は、そのことを知って、野辺に咲く花がいかに大切かを知り、親父がいとおしくて、初めてさめざめと泣いた。
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明治の末期、鹿児島の西南端の入り江の村に「サヨ」は育った。
鑑真がたどり着いた古い港のむらでそのゆかりの像がサヨが通った丘の上の小学校にある。
学校から帰ると、急な石段の道を30分かけて浜から湧き水を運ぶのが役目だった。
石屋だった父、その3女1男の長女として生まれたサヨは幼い時から一家を支え働いた。
小学校を出てすぐサヨは大阪の地方巡業の杉村劇団の家にお手伝い、後チエ子リリ子劇団と名を変えることになる二人の幼子の乳母として住み込むこととなった。
当時は貧困のため女は「口減らし」として都会に出されることが普通のことだった。
やがてサヨはは大人となり、国に帰り親が決めた指宿の農家へ嫁に行く。
当時は働き手、跡取りを作る・・そんな時代だった。
やがて2女を産むが男子ができなくて、だめな女としての烙印を押され、子供を残して実家へ帰される。
傷心のサヨは実家で黙々と働く、その長女の幼いあきこは母親が恋しく家出をしては村を訪ねてくる。
なんども迎えに来るごとあきこはサヨにすがって泣いた。
連れ戻されるあきこを岬の峠まで送りもと来た道を戻る途中、坊の岬の断崖の上でサヨは涙かれるまで泣いた。
サヨが子供を呼び戻していると言いふらされるとともにサヨは故郷を捨てる。
サヨはその後生涯故郷の地を踏むことはなかった。
一人また大阪に着の身着のままのまず食わずで3日かけてたどり着く。
杉村家にいたときにわが子のようにやさしくしてくれた出入りの魚の行商のおばあさんをたずねる。
おばあさんはその家の2階に住まわせてくれて、近所の着物の縫い物の仕事を取ってきてくれてひっそりと生きていく。
時代は第一次世界大戦が終わった昭和のはじめ、そのころ惣七は徳島の山奥で木を切っていた。
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僕の家族に突然出来たあきこ姉さん・・ただ姉さんだよって聞かされしばらくわけわからなかった。
あきこねえさんは控えめで、やさしく、懸命に家事をこなし、赤ちゃんを育てた。
そのうちそのだんなさんという方が家族に増えた・・・僕にとっては義兄となる。
兄さんはお袋の田舎の鹿児島にいて大工をやっていた。
あきこねえさんと出会い、結婚子供が出来たところで一旗あげようと3人で着の身着のまま出てきた。
とりあえず生活のめどが立つまでここに住むことになった。
兄さんは朝になったら出かけて仕事を探しに行く。
帰ってこないことも多かった。関西中を仕事を探し、工事現場に飛び込んでは監督に掛け合いその日の仕事をもらい、うまくいけばその宿舎に泊まりこんでいた。
中学生だった僕はそんなことも知らずにただ突然あらわれた家族に戸惑っていた。
とうとうあるときお袋にたずねた。
「なあ、僕あきこ姉ちゃんの思い出なんもないねんけどなんで?」
お袋はその生い立ちを話し出した。
それは悲しい物語だった。
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昭和30年代は戦後の荒廃からやっと立ち直り新しい時代の息吹が吹き出していた。
僕が住む大阪の港湾地帯も人口が増え、活況を見せていた。
僕は中学生となっていた。
ある日学校から帰ると、見知らぬ女性が乳飲み子を抱いて茶の間でお袋と話していた。
「ただいまあ・・・」
「おかえりいい・・あーーあきお あきこ姉ちゃんやで」
「・・・えっ?!・・・・ ?・・・どうもぉ・・・・」
奥の間にかばんを投げ出し、茶の間に戻ってやっと我が家に来たテレビのチャンネルをまわし鉄腕アトムを見る。
・・・ねえちゃん?・・・・なんでやろ?・・・いままでそんな話聞いたことないで・・・・姉ちゃんは”ふいこ”だけやん・・・・・・・・どないなってんねやろ・・・・・・・・・
ちらちらとそのあきことかいう女の人を見る。
30ぐらいだろうか化粧などしてなくて優しそうで聡明そうな美しい女性だった・・・・
乳飲み子のかわいい女の子を抱いていた・・・なんかわけわからん・・・・・・
僕の家族が突然二人増えた・・・大人の事情などまったく理解することも出来ない子供の僕にとってはなんとなくそうなんだってわけもわからず受け入れていった。
僕にとっては姉が出来たというよりも、かわいい妹が出来たということのほうがうれしかった。
つづく
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尾崎が路地裏で裸で倒れていたのはなぜか?
いろいろな利権がらみのことで、暴露合戦があって民事裁判があって、尾崎は最後まで真の表舞台に出てくることは少なく、今もって「ただのジャンキー」との評価がまかりとおる。
同時進行で心酔して行ったフアンは何人か友人にもいるが、純粋でたおやか。
理想の世界にあこがれる・・・・・・
TERUは親友の音楽の天才TAKUROとともにバンドを作りあげその絆を確かなものとしていった。
名声や、金儲けが大切なことなのではなく、その過程が大切なんだ・・・
絆は同じ文化を継ぐことでより深くなる・・・・・・・言葉だけで受け継ぐことはまぼろしでもろくも壊れることは世の習い・・・だって言葉の世界はまぼろしであり、音楽そのものや芸術などと同じ。
それは発信する人だけの世界だから。
僕は一貫して言葉の危険を書いてきた・・・・しかしそれが悪だということではない。
音楽や、芸術と同じように人生のツールだ。
そのものに真理があるように錯覚し作られた世界に埋没して心の迷路にはまってしまう事件があふれている。
理屈を抜きにして、人は人と過ごす・・・それだけを信じてすべてに真摯に取り組むだけでいい、
そしてそのように生きていくことが周囲の身近な人たちを救うことになる。
人生は出来るだけ単純に理解していることで一人一人がするべきことが見えてくる・・・・
尾崎!柳!どう?何か言ってよ・・・はははは。
P.S.HIDEとTERUの名前を取り違えていたので、2008/1/22修正
XーJAPANが天才hideが亡き後初めて再出発をするという・・
がんばってください。
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数年前次男AKIとGLAYと尾崎では何が違うかについて語ったことがある。
AKIは僕が思う結論をしっかりと理解していた。
だが、僕がなぜ彼らにこだわるかは具体的に伝えてはいなかった。

僕が高校生から10年間尾崎のように寄る辺なき時を生きていた。その後の10年間僕はGLAYのTERUにその思いを重ねることができる・・・そしてそのことは中田HIDEに対しても重なるような思いである。
尾崎とTERUはその風貌がよく似ている・・そして無二の親友であった「柳」と重なるのですよ。
<
「中央が柳、下は八ちゃん・・どうしてるかなあ」
彼は繊細で言葉を大切にしていた・・・そしてそれはあまりにも孤高で愛を説いた。
たとえば「絶対の信頼こそ永遠の絆」・・
往復書簡ではいつも僕は正論をぶち、彼はその偽善をそれとなくつく・・・
僕は今、彼にそのことでまた語ることが出来るのだろうかなあ。
「15の夜」で彗星のように現れた尾崎は一気に上り詰めていく・しかし彼はどんどんそれが自分の求めていた言葉の世界と乖離していくことに気がついていったように思う。

そして突然活動を休止して放浪の旅に出る。
そこで彼は薬とゴスペルに出会ったようだ。
戻ってきたときその音楽性はもっと孤高の世界に上り詰めたような気がする。
本当は「永遠の絆」を求めていたのかもしれないなあ。
でも現実は商業主義と偽りの愛と世界が違ってしまった友人たち・・・・
裸で路上に倒れていたとき彼は何を思ったのだろうかなあ。
アメリカに遊んだとき彼はそこで歯科医師研修生の青年に出会う。
青年は尾崎を知らずただ音楽が好きで乱暴だが純粋な心の男として語り合う友人となる。
お互いに夢を語り、青年は尾崎に神を見て、最高の技術を習得するまで日本に帰らないと決意をする。
尾崎は青年に日本で歯科医院を開いたら、きっと行くから待ってると告げて日本に帰る。
数年後青年は日本に帰り医院開設準備のときレコードショップの店頭に尾崎追悼ポスターを見かける。
部下に彼は何物だ?ってたずねると「ただのジャンキーですよ」って答える・・・・・・
青年は以後英字新聞に約束の医院の広告を打ち続ける・・・しかし彼の知る尾崎はまだやってこない。

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清原が最後の戦いを決意した。
思えば、清原と、桑田が甲子園のスターになったときその後のドラマを漠然とだがもっと違う形で僕達は思っていたように思う。
桑田の巨人への逆転入団で、清原は涙とともに西武に入団した。
巨人との日本シリーズで巨人を破って日本一になるのがほぼ決まった最終戦の最終回、清原は守りながら滂沱の涙を流した。
二人はそれぞれ活躍したが怪我がつきまとい、幾多の物語を作ってきた。
いつしか、巨人で同僚となり、追われるように巨人を去り、桑田は大リーグへ。
清原はついに無冠のスターとして終わるしかないと思われていた。
先ほどその清原が来期への決意を語った。
もう一度闘うと。
怪我を克服し、大リーグのマウンドに登った姿を見て、あの甲子園でともに闘ったころに戻ったのだろうか。
すばらしい表情であった。
やっと清原を心から好きになれた。
結果が大切なのではない。
最後まで諦めなかったかということだ。
有終のフイナーレは走りきったあとにこそ待っている。
走れ!約束の地へ。
まさに
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ある日の放課後、帰路の野田商店街を歩いていた。
そのとき僕を誰かが呼んだ。
「は○もと君!」
目の前になつかしい”まきこ先生”が少しはにかみながらにこにこして立っていた。
「あっつ!先生!、どうしてここにいるんですか!」
「うん、そこの小学校で、学会があるんよ!、元気だった?(^_^)」
「あはい」
「そうよかった!じゃあ(^_^)」
「あはい」
手を振りながらすれちがって中学時代を思い出していた。
ひゅん ひゅん ひゅん・・・・
ある日の放課後、僕は校舎と校舎の渡り廊下を歩いていた。
そのとき誰かが僕を呼ぶ・・・・
「は○もとくん・・・・」
振り返ると、校舎の陰から少し顔だけを出した”まきこ先生”がいた。
少しはにかみながら笑顔で僕を見ていた。
「あーせんせい!」
「ねえ、こんど家に遊びに来ない?(^_^)」
「えっ!あはい!」事の成り行きに呆然としながら、断る理由もないし、大好きだったまきこせんせいが僕を家によんでくれたんだ。。。
まきこ先生は大学を卒業して初めて赴任してきた理科の新任教師だった。
素敵で、おねえさんのようで僕達に人気があった。
からかいの気持ちもあってよく質問をした。
教員室にも押しかけて、いろいろ教えてもらう。
机の引き出しにはいつも飴玉が入っていてそれを貰うのも楽しみだった。
いつしか他愛ない交換日記をするようになっていった。
ひゅんひゅん ひゅん・・・・・
中学校を卒業して、まきこ先生のこともすっかり忘れていたのだったけど、路上で偶然出会ってなにかどきどきしていた。
それから半年したころ、風のうわさに”まきこ先生”がなくなったことを知った。
一人広大な屋敷に住んでいた少女のような謎の「女先生」の身の上に何が起こったのかと、うろたえたりしたけどそれ以上僕がどのように行動するべきかもわからず、一人その想い出を心の奥底に秘めて埋没していった。
人生は一人一人に確実に存在しているのだけど、人生を歩き出した僕には自分の身の上に精一杯で大切な人を失うことの悲しさもよくわからず過ごしていた。
「青春」とは「若い」ということならそれはただ言葉で知っただけの人生で、なにも知らなかったんだと思い知ったのはそれからずいぶん年月を経て、幾多の悲しさを経験しなければいけなかった。
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そんな中僕は大学へ進みたいという思いを断ち切れないでいた。
大学生が革命を起こそうとしている。
そこにまだ見ぬ世界が待っている・・・・・魅惑に満ちていた。
中学の担任との面談で、貧しかった我が家からは大学に行かせる余裕はなく年老いていた両親は担任の「この子は東大でも行けるから」という途方もない勧めを断り実業高校へ行くことをきめた。
僕はあまりそのことの意味を理解することもなく担任が僕に「実業高校からでも大学に行けないわけではないからがんばって欲しい」って慰めてくれたことも、その意味と担任の深い愛情を理解することはなかった。
実業高校から大学へ進むということは当時ほとんどなく、当然就職し親の助けをすることが普通の時代だったのだ。
その中で同級生の加藤君はやはり大学を目指していた。
進学するにはどのような方法があるのかなど語り合っていくうちにその現実の厳しさがますます理解されてきた。
親に金銭に余裕がある家庭は私学に進むことで方法はあるのだがそうでないものは学力だけで挑むしかない、しかし実業高校では日常の勉強はまったく大学向けのものではなくむなしい時間が続く。
また予備校とか受験に向けた資料もない時代、孤立無縁な僕たちには途方もない壁が立ちはだかっていた。
ただ、クラブに打ち込む以外になかった。
夏が来て冬が来てまた春が来る。
その間にも、通学の朝の路面電車では文庫本の少女は変わらず清楚でいた。
でも僕は少し荒れていた。
少年が大人に変わっていくために誰もが通ることであった。
世の中が大人に対して激しく戦っている、僕は自分の夢がわからないでいる。
夜更かしをしては学校に遅れていく、勉強もする意味がなくただ音楽を聴き、クラブ活動で汗を流し、聞きかじった社会の現象について語った。
朝遅く起きるといつもの路面電車では間に合わなくなると、バスに飛び乗り終点近くの乗換駅で路面電車に乗り換えることが多くなってきた。
そのとき同じようにバスを降り、路面電車の停留所に走る長い髪の少女がいることに気がついた。
もうすでに大人の淫靡さを持つようなその少女に僕は心を奪われていった。
長い髪の少女に出会うためにいつもバスに乗る僕があった。
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高校生になって感じたことは人生は社会に生きることなんだということだった。
それは、中学時代に読んだ「次郎物語」でなんとなく感じていたことだった。
物語は、戦前、政治への庶民の運動のような展開で未完のまま終わっていた。
そして社会は今、戦後の復興期となりその抑えられていた若者の思いが爆発しだしていた。
時代は僕たちが変革し作っていくのだという思いであったのだろうか。
戦前までのある種の弾圧から解き放たれた庶民は、自分たちの社会を作るためにということのため国家に異議を唱えだしたのだ。
戦後の経済の変革により、さまざまな部分で争いが発生して行った。イデオロギーや労働者の権利擁護が戦後民主主義のテーマであったからそれは労働者団体と大学生が中心となりその激しい戦いが燎原の火のごとく日本中に広がっていった。
日本は大東亜共栄圏という名の元、東アジアの覇権を求めて無謀な戦争を引き起こし、やがて敗北する。連合国の支配下に置かれたとき、米国は日本が共産圏に組み込まれることをなんとしても阻止するべく日本の完全な占領国として守ったということが新しい時代にはそれが、時期世界戦争の最前線基地として米国を守るために捨石となるという危惧がとなえられ、新しい日米安全保障条約を阻止するための社会運動が発生していった。
1960年6月の日米安全保障条約の批准阻止に向けて日本中が社会運動の激動の時代に突入していった。
その規模は日に日に大きくなり全国の労働団体、大学、文化人が数十万規模で路上にあふれていった。
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僕たち高校生は事の成り行きに呆然としながら、やがてクラス討論がなされるようになり日曜日は大学生のデモ行進に参加するものも出てきた。
僕も大阪扇町公園での集会に参加したりするうちその膨大なエネルギーに触れ精神の高揚と何かをしなければいけないという突き上げるものがあった。
ただ、そのころの高校生はデモを面白いからという気分で捉えるものが多く運動の当事者もあまり快くおもっていなかった節があり巻き込むことへの躊躇が感じられた。
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彼が通う実業高校は、その都市の西北地区で大工場から町工場までひしめき あう町の一角にあった。
明治の富国強兵政策により、大量の職工を必要としたために創立された日本最
古の実業高校であったのだ。
彼や彼女が住む港湾に近い町は戦後の地盤沈下により、埋め立て造成されて
町並みはすべて新しく作りなおされたが、低所得層が住む、地域であって、新しい時代の到来を期待しつつ、ただ働く以外知らないといった、家庭環境の
中で育って来たのだ。
通学の路面電車では、やはり彼女は、文庫本を必ず読んでいた。
彼もやはりよく文庫本を読むことが多く、彼女とは目を合わせることもあまりない。そんな時代なのであった。
男子校の彼と女子校の彼女がお互いの存在に気がついたとしても、声をかけるという事は全くない、そんな時代であった。
彼はひたすら、学び、運動に励み、新しい知識を得ることに目を輝かせ
夢を培っていった。
彼女も又そのような時代を生きていたのだろう。
そのように夏が過ぎ冬が来て春になり又夏が来る。
季節は巡っていった。
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僕が住んでいるのは、とある都市の海に面した町である。
昭和30年代はまだ路面電車が走っていて、片道40分の都心の
実業高校へ、3年間通うことになった。
![]()
通いはじめてすぐ、2つ目の停留所から乗ってくる
女子高校生がいることに気がついた。
僕の学校がある終点の停留所から、まだ郊外へ向かう
私鉄に乗り換えていく、清楚,可憐な少女であった。
いつも文庫本を読んでいるその少女はそれから3年間僕とほぼ毎朝その満員の、通勤通学路面電車で見かけることになったのである。
昭和30年代は日本が大きく変革を始める胎動期であった。
敗戦の精神の荒廃と、貧困の生活の中に、新しい時代が近づいていることを、均等に貧しかった庶民が夢を膨らませ、禁断の消費文明を手に入れようとしていたのだった。
大都市の中の町工場がどんどん大きくなり、煤煙と亜硫酸ガスの中で、大人達はひたすら働き、子ども達は皆平等にその時代を生きていた。
新しい時代は怒涛の勢いでやって来ようとしていた。
P.S.
最近仕事の上でプロジェクトが次から次と押し寄せていて、なかなか記事がかけない。
そこで過去に書いた記事の時代へエスカル号でもう一度言ってこようと思いついた。
新しく思い出したり、間違っていたりする部分を書き込みながら写真を追加したり、書いていくことにする。
まずは二人の息子が高校一年と高校3年になる2年前に僕の高校時代を書いておこうとこのブログを立ち上げるきっかけとなった「青春のわだち」を再録することにする。
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医者で薬をもらって飲んでいる。
肩こりの薬であるが、要するに筋肉をほぐす薬と、痛み止めと、胃腸薬である。
これがよく効く・・しかし筋肉が弛緩するのであろう、気力が失せる・・・眠たくなる。
やる気が失せるってことは肩が痛くて仕事にならないことと同じだああ・ってことで生まれて初めて針治療に言ってきた・・こわかったああああ(笑)
少しは効いたかなあって思うけどまだまだ。
治療に先生が僕に言ったんだ。
「心と体は一体なんです、あなたは心が痛んでるんです・・・私は体を見て触ればわかります・・・・・
一日10分でいいから遠くを眺めて休みなさい・・・・・」
ひやあああああああ、僕のブログみてるんジャーないの?って思いましたねえ。
確かに昨年暮れからの人生最大のプレッシャーの連続の流れはどんどん大きくなって無理をしたもんなあ。
まさに大戦争って表現が正しいんだけど、具体的に書くと色々信用不安などにつながるので・・・(笑)
世間ではコムソンが瓦解しようとしていたりしてみんな必死に戦っているのだから僕も愚痴を言わずにたんたんと頑張りますよ。
まあ今日大きな不安材料をひとつ乗り越えたのでちょっと書いてみたりする。
電脳論はまだまだプロローブあたりをうろついているのですが、そもそも電脳論とは脳はコンピューターと同じだという僕のなかでの思いを書いているわけです。
若い頃はコンピューターの性能も小さくて給料計算ぐらいしか使い道がなかったものが今や2足歩行ロボットに組み込まれて2チームに分かれてロボットが自分で判断してサッカーの試合をするまでに進化してきた。
この場合そのロボットは相手が見えているといえるわけであり、そこに禁断の仮説が浮かんでくる。
ロボットは自分という意識を持っていると。
古くは人間機関説としてこの考えは提起されていたわけですが、人間とは何か?を思って生きていく羽目となったときからすべての事象をその側面から眺め生きてきた。
そして自分がプログラマーの真似事をするようになってますます人間は特別な生き物ではないということを確信していった。
現代、占いや、スピチアルブームが売るための道具として広まってきているとき、脳科学者は必死に自分の説を喧伝しようとして頑張っている。
正に百花繚乱、ますます混迷の中へ迷い込んでいるように思う。
それは、言っていることはよく似ているのだけど、それぞれも難しい言葉を作り出すことにより学者同士のすりあわせにも支障を来たし、若い人たちはその入り口で言葉たちに振り回され、それを自分のを鍛えることに有効に使えないでますます破綻の道を歩むことになってしまわないかと僕は心配している。
「微笑みはただ言葉で知り、そして愛も」ってことです。
いい子でなければいけないという呪縛が今の混迷の本質だとしたら、脳科学者たちの言葉は何の役にも立っていない、小学生までの子供たちにそのような言葉が届くはずがない。
それがバカの壁のクオリアだ・・・意味不明(笑)
養老心理学と茂木心理学はその意味においても同じことが言える。
つまり子供たちを救うためには大人を何とかしなくてはいけないと思っているとしたらそれは正解だ。
それを養老氏は「バカの壁」としてなかばあきらめているように僕は捉えている。
茂木氏はマスコミ受けしてくるに従い僕は危険な領域にさしかかっているように感じて仕方がない。
詳細は書かないでおく、今までづっとそのことを書いてきたから。
さてそのような2氏の方向を僕はある言葉になぞらえることが出来るように感じている。
「色即是空」だ。
「空」が養老氏の「壁」「昆虫」で「色」が茂木氏の「アハ」または「クオリア」だ。
そこで僕の電脳論が次の思いにたどり着く。
「色」は「体験」で「空」は「体」
「空」は「心」で「色」は「プログラム」
色すなわちこれ空なり
空すなわちこれ色なり
あーーみんな空海が言っていたことなんだ。
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最近、肩のコリがひどくてとうとう医者に行ってきた。
店のオープンに向けての無理に無理がこたえていたいたわけで、なんか重たい病気かもしれないと思ったんですよ。
パソコンの前で10分が耐えられないほどになってきてとうとうパートさんが勝手に病院の予約を取ってきて車で受付に連れて行かれてしまいましてしかたなく・・(笑)
いまどきレントゲン写真って早いですねえ、あれどうなってるんでしょう、撮影してから1分ぐらいしか経ってないのにできてましたねえ。
30数年前の「キャッチセールス秘中の秘」のシーンの再現でしたね。
まあ結果は、使いすぎ・・・はははは、この若さで使いすぎはないやろ・・・って強がりは飲み込んで素直に薬飲んでますよ。
その結果少し痛みは和らいでるんですけど、昨日は薬のせいか、眠たくて眠たくて、夕方事務所にもどってうとうとしてたら、話題の「パイレーツカリビアン」がテレビで始まっていて、ボーと見ていたら面白くて見入ってしまった。
ワンピースに似ていてわくわく。あれはパクリかもしれないぞ!・・・
そのなかでのセリフで心に残ったものがある。
「何ができて、何ができないかを知ることだ!」
ちょうど電脳論6で書いたことを言葉にした感じ。。。
等身大に生きるとかあるがままに生きるとか、そのことは自分を知ることから始まる・・・ってことで少年のとき知識やゲームで得た能力を自分の本来の能力のように思ってしまう「万能感」にとらわれてしまうのだけど実際の現場でそれが通用しなくなってきてそれを受け入れる作業が一筋縄ではいかないわけで、柔軟にそれを受け入れ新しい舟を出す作業は幼いときに得た「資質」・・電脳論でいうところの「OS」:オペレーティングシステムによるわけだ。
テレビは最後のほう僕は寝てしまって見てない。はははは。
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心のあり方を走ることに置き換えて考えているのだが、なんども同じ事を書くのだけど、僕は心は体の一部分だと思っていて、そのように気がつくことによって僕達はずいぶん思い込みで生きているってことがわかってくる。
それは捏造の論理でも繰り返し書いてきたことなのだが。
無意味な思い込みを取り払って心の中身にたどり着くことができれば、それ以後どのように生きればいいかが見えてくるように思っている。
無駄な苦しいことは体に良くない、そのような試練は走ることと似ている。
いやいや走ることは5倍苦しいことになるんだ。
逆に懸命に走ればやがてすべての事象が開けてくる。
「しろやま2号の旅」のあと僕を取り巻く状況は最悪の時期を迎えていて、閉塞していった。
自分をだせないままおどおど生きてきた少年期のつけが一気に押し寄せてきたように思う。
そんなとき、会社で運動会が催されることになった。
近畿の営業所を8ブロックにチーム別けしての大きな催しとなった。
会社でも、同期のあいだでもどんどん孤立して行ったのだけど、このとき2000メートル走に僕は出場した。
なにか一つでも光が欲しいと思っていた僕は会社から帰ってくると死に物狂いで走った。
文字通り死んでもいいって感じで自分を痛めつけて走りこんだ。
帰ってきてそのまま着替えもせず走りこむものだからある時、乗り合いバスがものすごい形相で走っている僕を見て横に止まって、「乗りなさい」って言ってくれた事もあった。
運動会当日その競技は大会の花となって捉えられていた。
各ブロックからは若手の自信家が出場してきていた。
その中に新入社員の「LIBERTY」もいた。
スタートしてすぐ僕は猛然と走り出して2位以下を半周以上差をつけて最後まで差をちじめることもなくぶっちぎりの優勝をしてしまう。
終わって休んでいると次から次といろいろな人が祝福に訪れる、K代やT子などはきらきらと目を輝かせ感動を気持ちを伝えてくれる。
LIBERTYやその同期の連中も次から次とやってきては来年は絶対負けないから!って笑ってくれて僕はその反響に驚いていた。
そのご地方の営業所に出張してももう僕はヒーローになっていて歓迎してくれた。
翌年も優勝、3年目は強力な新人が現われたと情報が届く。
でも、負けるはずがないとたかをくくっている。
号砲一発スタートして僕は転んだ!。
起き上がって走り出したが最下位にいてその新人は半周近く前を走っている。
激しい追い込みが始まった。
2位まであがってはきたけどその新人はひょうひょうと走り続けて差がちじまらず僕は負けた。
翌年のリネンジのとき彼は会社を辞めていて、僕の走る意味はなくなっていった。
走るということは孤独なんだけど、その中からしらずしらず人と過ごすための力を受け取っていくんだろうね。
考えすぎると結果はついてこない、ただ淡々と走るだけでいいんだ。
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電脳論がなぜ走るという切り口になってくるのか・・・わからん(笑)
心の仕組みをコンピューターにおきかえて分析してきたのだが、思いつくままに書きなぐっているのでいろいろ横道にそれるわけですが、相変わらず世間では不思議な事件が毎日毎日続いている。
僕はそれをほんとは不思議とは思っていないわけなんです。
15年前に確信していたんです。
僕達は経験することを受容し、そのように作られて行くってわけで、「それ以上でもそれ以下でもない」と一貫して書いてきた。
ってことは不思議なことでもなんでもないってこと。
あーーそのように生きてきたんだろうなあって思うわけです。
母親の腕を切り取って、白ペンキで塗って植木鉢にさしておく・・・・って僕には理解できます・・・その少年が不憫で不憫で、抱きしめて一緒に泣きたいような気分です。
脳に、特殊な病気の傷ができたために・・・って事を書く専門家がいたりしてそれはそれであっているんですけど、傷が先か、苦しみが先かって言えば僕は苦しんだ末に傷ついたと読み解きます。
僕達が生きていく上で苦しいことがあるのが普通なんですが、その苦しい局面を冷静に分析できればどのように切り抜ければいいかがわかるのだけれど、そのことでさえ、体験を通じてしか打開する方法を思い浮かべることもできないのが若いということなんだ。
僕が小学生だったころそろばん学校に不登校になって、づる休みしていて見つかっておやじに激しく怒られた。
それ以来僕はおやじに対しておどおどし、なかなか正直に自分を表現することができなくなったんだ。
そしてそれは中学2年のときもっともっと僕を孤立する事件が起こった。
YMCAの英語学校に通っていたのだけどあるとき学校から学期中の出席表が送られてきた。
そこには5日間ほどの欠席となっていた、
そろばん学校事件以来、決して悪いことができなくなっていた僕はお袋に言い訳をして学校に再調査を依頼することにした。
調査の結果間違いであることがわかり、その書類を作ってくれたのだが帰る途中その書類を紛失してしまった。
今思えば事情を言ってもう一度作ってもらうか直接正式書類を送付してもらうべきなのだがそのあとき僕は何もできなかった。
紛失してしまったという過失にまでおどおどしてしまったといえるだろうか。
帰ってきておふくろにそのことを告げるとお袋は「うん・・わかった・・もういいよ」って言ってくれたけど今思うに寂しそうに言っていたように思う。
あれは僕が実際は休んでいたので書類はもとよりなかったのではないかと言う推察をしていても不思議でない。
おやじも何も言わなかったけど僕はそのころどのようにこの事態を対処していいかわからなかったんだ。
少年時代・・・それは夢一杯の時代なんかではないのかもしれない。
何もかもがはじめての経験で混沌としていて、苦しく、わけわからないんだ。
でもそれではダメだってことはわかってきているので殻をかぶり周囲をごまかし生きていくはめになる。
なぜか気がついたら長い長い道のりを走らされている。
苦しい、苦しい、立ち止まりたい、でもそれを言い出せない、なんで?なんで?走らなければいけないの?
等身大の自分・・・って言葉は素敵な言葉なんだけどそのことは一杯の経験をしてはじめてわかってくること。
決して先に言葉で理解してはいけないんだ。そうでないと自分で自分をごまかしていることに気がつかないままで育っていくから。
失敗をしたらいいんだ、挫折を経験したら良いんだ、そのなかから本当の自分を見つけ新しい自分を創っていくのだ。
そして母親はそのような子供たちを抱きしめてやって欲しい。父親はそのようなこどもたちを、笑顔でうなづいてやって欲しい。
ただそれだけの経験の積み重ねで子供たちは等身大に生きていくことを理解していくのだ、きっと。
疲れたら、ちょっと休みなさい。
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僕達が人生を楽しく生きていたいと思うことは当然なんだ。
楽しくないって思うことも良く起こる。
どんなに恵まれていても楽しくないと思ってしまえばそれまでなんだよね。
必死に生きてきた・・・って人生は楽しいか?って僕が聞かれれば、僕は楽しかったよ!って答える。
長い距離を走るってことは苦しいことなんだ。
走り続けるか、あるいてしまうか、停まるか。
そのことが苦しいのか、楽しいのか・・・それはそれぞれの心が決めることなんだ。
楽しいよ!って言っても、その言葉だけでそれはわかり合える事ではない。
経験したことがない人にとっては「絶対楽しくなんてあるはずがない」って思っても不思議ではない。
高校1年のころ毎日毎日部活で淀川堤防を20Kほど走った。戻ってきてうさぎ跳び、それはそれは苦しいトレーニングだった。
2年生の先輩が鬼のように思えたねえ。
そのときは確かに楽しくはなかったんだよねえ。
秋の体育祭、僕はハーフマラソンに出た、部活と同じ淀川堤防を箸って戻ってくるコースだ。
はじめは何も考えないで義務で走っていた、3年生まで全員で60人ぐらい走るわけだから10位までの入賞に入れるわけがないし。
半ば義務のように・・・・折り返しところにその堤防に小学生ぐらいの少年達がいた。僕がその前を走りすぎるとき、少年達の声が聞こえた。
「16位いいいい」
えっ?そうなの?ならもう少しがんばれば入賞できるかも・・・俄然僕は力がみなぎりがんばりだした。
10位で校門に入りトラックを回っているときPTA席では初めて父母と、姉が来ていて、狂喜乱舞の声援が
聞こえてきた。
がむしゃらに走って一人抜いて9位入賞。
そんな経験が走ることの楽しさを教えてくれたんだろうなあ。
次男が2年生ごろ地元の駅伝大会に友達と出たことがある。
おっとりとしてる彼は、ちんたらちんたら笑いながら走っていた。
最後の周回のとき見かねた僕は「死に物狂いで走れええ!」って叫んでいた。
俄然かれはものすごい形相で走り出した、えーーっ僕はびっくりしましたねえ、そこでかれは5人ぐらいごぼう抜きで次のソウシャにたすきを渡した。
そこで走る楽しさを感じたのか、次の年彼らのチームは見事優勝を果たしたのだ。
単に走るということにおいてこのような現場に大切なことがあった、それは堤防で走る選手の順番を数えていた少年が居たということ、僕が思わず走れーーって叫んだこと。
人生はそんなことの積み重ねなんだ。
難しい理論やシステムではない、現場にいつもある人は人と過ごすということだ。
走らない理由ならいくらでもある。
でもそのとき、あの堤防にいた少年に僕は出会わなかっただろう。
そしたら次男が走っているとき、「死に物狂いで走れーーっ」って叫んでいなかっただろう。
逆に、「ひややかに」見ていただけかもしれない。
人が人と過ごす現場はそのような僕達が必死で生きている現場なんだ。
それだけで大丈夫!。現場を大切にすればいい。
今、保育園と24時間保育の可能性について打ち合わせを続けている。
3食おやつを届けるということが実現できねばいけない。
もともと、大きな業者がやっていたものだが採算を考えるあまり、粗末な給食になっていてその現実を見た僕はこの状態ですごす園児と悲しそうな保育士たちを思うと何とかしなくてはいけないなあって思って当社で引き受けることにした。
材料費分だけをいただくという採算を無視したわけ、まあ喜んでは貰っている(笑)
現場はこのようなことの積み重ねだ。
そのような現場で育った子供たちが小学生になり、通学途中僕を見つけて「あっふぉるてさんっ!」って笑ってくれるって・・人生は楽しいねえ!
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現代教育の現場にはいろいろな問題が噴出している。
それは15年ほど前PTAの役員をしたときに目の当たりにした。
大きな項目としては、教師の資質と父性の欠落だ。
問題発言だけど、一般論としてだからね(笑)
そしてその後そのことをなぞるように、少年少女の不思議な事件が続発するようになる。
そしてそれは今医療の現場でも起こっているのだ。
20年その現場近くで仕事をしていると色々聞こえてきたり、気がつくことがある。
そのようなことは僕のカテゴリー「捏造の論理」でも書いてきたことだが、権威の影響が大きいと思っている。
問題発言なのでこのぐらいで想像をめぐらしてください。
権威の意向にそぐわない学会発表はその場が与えられないわけで、新しい画期的な研究は海外で発信するというような現象まで起こっている。・・・らしい(笑)>おもねく
学問は文化を創造し、時代を作っていくのだが、その積み重ねが結果をつくっているのだったらもっと暖かかくて素敵な人生をみんなが送れても不思議でない。
なにが違ってきているんでしょうか・・・・・
僕は現場不在だと思っています。
その担当者の目が現場に向いていなくて権威に向いている・・・・そんな感じがしている。
今一度現場に目を向け、学問として確立するのではなく、技術として切磋琢磨していく人たちが多く出て欲しい。
教育では一度社会人としての経験をその過程に組み込む動きが出ている。
心理学においては、学問としてよりも、カウンセリングとしての現場技術を抜きにしてはこの混迷を救うことは出来ないと思っている。
医療としては思うように機能していないように感じている、もちろん現場主義の医療機関もあるのだがなかなか結果が出ない部分で現場にテキストが不可欠になっているということは何か違うように思う。
施策として乳児期からの民間のカウンセラー機関や教育機関の増強が急務だと思っている。
乳児期から幼稚園までを親も含めてゆったりと過ごせるようにしなくてはこの時代を救うことは出来ないとまで思っている。
そこに難しい学問などは必要ではない、子供と親を含めて人と過ごす・・・それだけでいいんだ。
だって
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