カテゴリー「■青春のわだち」の11件の記事

2007.07.01

新青春のわだち 5 女先生

ある日の放課後、帰路の野田商店街を歩いていた。
そのとき僕を誰かが呼んだ。

「は○もと君!」

目の前になつかしい”まきこ先生”が少しはにかみながらにこにこして立っていた。

「あっつ!先生!、どうしてここにいるんですか!」
「うん、そこの小学校で、学会があるんよ!、元気だった?(^_^)」

「あはい」
「そうよかった!じゃあ(^_^)」

「あはい」

手を振りながらすれちがって中学時代を思い出していた。

ひゅん ひゅん ひゅん・・・・

ある日の放課後、僕は校舎と校舎の渡り廊下を歩いていた。
そのとき誰かが僕を呼ぶ・・・・

「は○もとくん・・・・」

振り返ると、校舎の陰から少し顔だけを出した”まきこ先生”がいた。

少しはにかみながら笑顔で僕を見ていた。

「あーせんせい!」

「ねえ、こんど家に遊びに来ない?(^_^)」

「えっ!あはい!」事の成り行きに呆然としながら、断る理由もないし、大好きだったまきこせんせいが僕を家によんでくれたんだ。。。

まきこ先生は大学を卒業して初めて赴任してきた理科の新任教師だった。
素敵で、おねえさんのようで僕達に人気があった。
からかいの気持ちもあってよく質問をした。

教員室にも押しかけて、いろいろ教えてもらう。
机の引き出しにはいつも飴玉が入っていてそれを貰うのも楽しみだった。

いつしか他愛ない交換日記をするようになっていった。

ひゅんひゅん ひゅん・・・・・

中学校を卒業して、まきこ先生のこともすっかり忘れていたのだったけど、路上で偶然出会ってなにかどきどきしていた。

それから半年したころ、風のうわさに”まきこ先生”がなくなったことを知った。
一人広大な屋敷に住んでいた少女のような謎の「女先生」の身の上に何が起こったのかと、うろたえたりしたけどそれ以上僕がどのように行動するべきかもわからず、一人その想い出を心の奥底に秘めて埋没していった。

人生は一人一人に確実に存在しているのだけど、人生を歩き出した僕には自分の身の上に精一杯で大切な人を失うことの悲しさもよくわからず過ごしていた。

「青春」とは「若い」ということならそれはただ言葉で知っただけの人生で、なにも知らなかったんだと思い知ったのはそれからずいぶん年月を経て、幾多の悲しさを経験しなければいけなかった。

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2005.05.25

青春のわだち 番外編 超時空

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昼下がりの始発の停留所を出発した路面電車は混んでいて中ほどの席に座っていた僕は後ろの窓から懐かしく流れる風景を見ていた。
電車は一路南下し川口で右に折れて西に向かう、・・・・・
・・・今まで外は晴れていたはずなのにいつの間にか暗くなっている、突然稲妻が走った。
ふと気がつくと隣に老人が座っていて僕に話しかけてきた。

老人「やあ少年!(^_^)卒業だね!(^_^)」

僕 「あはい・・・・・」

老人「高校生活はどうやった?(^_^)

僕 「はー別にぃ・・・・・・」なんかやたら(^_^)マークの多いおっさんやなー

老人「お父さんは元気か?」

僕「えっつ親父を知ってるんですか?」

老人「そら親父や・・えっああいやその男前のきみやからさぞカッコエーー親父さんろなーって思ったんや」

僕「かっこえーなんてそんなことないでもう年取っててちょっと体の調子も悪くてでも仕事がんばってるけどな、
親父はもう62ぐらいやねん、年取ってるけど僕が子供やからがんばってるみたいや。はよ僕も働いて金儲けするねん。」

老人「ほう62か偶然やけどおっちゃんも62や、ほんで商売人になるんか?」

僕「小さいころはそうおもとってんけど、やっぱりサラリーマンかなあ社内恋愛してがんばってその会社の社長にまでなったるねん。」・・・・あれーーなんか僕大人の人にこんな気楽にはなしするなんて今までできへんかったのに
このおっさん親父みたいに気楽に話せるなー・・・そういえば親父にそっくりやなーこのおっさん・・・親父はげちゃびんやけど・・・・・あれーーこのおっさん涙浮かべてるデー


老人「うーーんそうやなー色々経験したらええねん、恋もできるし」

僕「えーー僕彼女おれへんし、はずかしがりやしあかんたれやから無理や」

老人「そんなことないし、おっちゃん知ってるし・・・」

僕」えーーーなんで知ってるん?」

老人「えっあいやおっちゃん人を見る目があるねん、あんたは大丈夫いっぱい恋するし、最後の恋も大恋愛で
二人のえーーー男の子もできるし、でも親父と同じように年取ってからやけどな」

僕「えーーなんでそんなこと知ってるんほんでわかるん」

老人「いやいやそう感じるだけや、君がおっちゃんぐらいの年になったらわかるてはははは(^_^)」

老人「そうかかのじょおらんのか、でも好きな子はおるんやろ」

僕「おらん・・・・まーかわいいなー思う子は何人もおるけどな」

老人「そうかおまじないの札をあげよか・・・これやこれをすきやなーって思ったらなんも言わんでもええねんこれを渡すだけでいいねん。あんたは引っ込み思案やから声をかけたりできへんから、だまって渡すだけでええねん。
この方法はな秘密やけど21世紀には若者はみんなする方法や特別に教えたるは、但し1枚だけや

僕「ありがとう、へーなんか黄色の紙になんか英語みたいなことかいてあるけどこれどういう意味?」

老人「うん意味わからんでええねん、おまじないやから、これが時空を超えた奇跡をおこすんや、電気が走ったって思った子にわたしたらええねん。ええか、この電車で起こるかもわからんで・・ええか」

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おっさんと話してるうちに混んでいた車内はいつの間にか立っている乗客はなくなっていた。
ふと向かい側に目をやったとき少し右側にセーラー服の少女がこちらを向いて座っていることに気がついた・・・・・・・

ぁっ・・・文庫本の少女だ・・・・・・

そのとき少女は文庫本を読んではいなかった。
窓の外の風景を涼しげに目をやっている少女は変わらず清楚であった。

そしてひざの上には黒い筒が握られていた・・・・・・・
あーーーー彼女も卒業なんだ・・・・・・・・・・・・

右前に座ってこちら側にまっすぐ顔を上げた少女を意識しながら窓の外を見ている・・・
あーーもうあえなくなるんだ・・・急激に寂しさが襲ってくる。
時が刻まれる・・・やがて車掌が少女の降りる停留所の名前を告げる。

少女が立ち上がる・・・・
・・・・・そのまま立ち止まる少女・二人は初めて正面から見つめあった・・・・・・

時が止まる・・・・・・・・・・・・・・
少年を見つめる少女の瞳がきらきらゆれる・・・・・・・・・時が止まる・・・・・・・・・・・・・・そのとき音もなく稲妻が走る
電車が停まり、ドアが開く・・・・・
再び時が動き出し少女は硬く唇を閉じ歩き出し降りる。
なぜか今まで僕の右手にあったおまじないの紙を彼女は握っていた。


呆然とその後ろ姿を見つめる少年・・・・・・・・

やがてドアがしまり電車は何事もなかったように走り出す。
ふと気がつくと先ほどまで話していた老人はいなくなっていた。
あれいつの間におりたのかなー、でも不思議だ少女にあの紙僕は渡したのか?よく覚えてない。

いつかその少女に会えるんだという確信みたいな物とその不思議な老人にもきっと会えるという意味のない確信が僕の精神の奥底に取り込まれていった。

西へ向かう電車の正面には早春の昼下がりの陽光がふりそそぎ、海の香りが僕を包む。
少しの寂寥感とそして僕は僕のままでいいんだと許されている不思議な充足感に浸っていた。

そしてそのとき僕は少年を卒業し大人へと歩みだした。

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青春のわだち 9 エピローグ(あとがきに変えて)

時空魔神エスカル号は時を自由に行き来できる。
僕は40数年前に戻ってきた。
しかし少女は確かにあのとき僕を見つめて瞳がきらきら揺れていた。

僕は呆然と見つめていただけであった。
そのとき確かに時空が別の世界へ行っていたように感じる。

過去の出来事を変えてしまうということは今の事実が崩壊することだと言われるのだがあえてもう一度エスカル号であの瞬間に行くとしたら僕は次のメモを渡すことにしよう。

memo


少女はそのアルファベットのつづりを電車を降りて見て不思議に思うに違いない。
そしてきっと想い出としてアルバムにはさんで謎を解けないでいる。

そして40数年後彼女は孫からそれがインターネットという世界のメールアドレスとそっくりだと指摘を受ける。
半信半疑彼女は孫に教えられ今、メールを打っている。

「お元気ですか・・・・私は少女です」

このエピローグを書き終えたら早速僕は受信トレイを開いて返事を書きます。

「僕はあれからは過酷な暴風雨の海や戦いの島をさまよってきましたが、いっぱい仲間が出来ました。僕はあの時不思議な力をあなたから受け取りましたよ。だからどんなときも僕が僕であり続けることが出来、人を好きであり続けられたのです。あーーー人生は不思議がいっぱいで素敵だ。」


○青春のわだち 完○

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青春のわだちのテーマのひとつ「わだち」について

男と女の間にはうずめきれない距離が開いている。それがお互いにそのことを理解し許しあうことが出来ればそれはふた筋のわだちとなって素敵な軌跡を描いてくれるのでしょう。
でもそれは人としていろいろな経験をしてきたからこそ獲得できるものだと感じる。
素敵な大冒険の航海をしたいものですね。

世界にはいまだ争いが渦巻いている。
それは相容れない人生観の戦いでもある。
いつかその軌跡が2本のわだちとなり相手を許容し一定の距離を置きながらも共存できるようになることを願わずにおれない。
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この記事を書くにあたりいろいろなサイトに立ち寄り時空空間を飛びかうための羅針盤とさせていただきました。
主要なサイトを次にあげておきますありがとうございました。

http://www.ne.jp/asahi/karanohako/m.t/
からの箱のan1 60年安保の軌跡
http://www.kabegamikan.com/
壁紙館
http://www.asahi-net.or.jp/~hp6y-isym/
JA3TZZ
http://www.qbiz.ne.jp/eco-ok/home.html
エコOK

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青春のわだち 8 卒業

 1961年3月僕は高校を卒業した。
少年にとってはすべてが新しい体験であってその体験こそが人生の糧となることを思い知らされることとなった。
しかし漠然としていてそれをどのように対峙し生かしていくのかなどまったく思いつくことはなかったに違いない。

少しの挫折感と空虚さを胸に秘めてはいたが新しい大人の世界にきっと楽しいことが待っているに違いないという漠然とした期待のほうが大きかったといえるだろう。

 卒業して二日後放送室に忘れた卒業証書を取りに学校へきていた。
黒い筒状のケースに入った証書を見せびらかすがごとく通いなれた本通商店街を歩く。

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友人とたむろした「ふるさと饅頭やさん」「アイスクリームやさん」朝いつもショーウインドーに腕時計を拭きながらならべていた時計屋さん、立ち読みをした本屋さん、友人が絡まれて連れ込まれた路地、西鉄奇跡の3連敗のあと4連勝の日本シリーズ中継をみた電気屋さん、すべてが懐かしく心を癒してくれて、本通を抜けて路面電車の停留所に来たころにはすっかり新しい社会人になることを期待する卒業生になっていた。

昼下がりの始発の停留所を出発した路面電車は混んでいて中ほどの席に座っていた僕は後ろの窓から懐かしく流れる風景を見ていた。
電車は一路南下し川口で右に折れて西に向かう、車掌のアナウンスがだんだんと住み慣れた町にちかづいているのを気づかせてくれる。

混んでいた車内はいつの間にか立っている乗客はなくなっていた。
ふと向かい側に目をやったとき少し右側にセーラー服の少女がこちらを向いて座っていることに気がついた・・・・・・・

ぁっ・・・文庫本の少女だ・・・・・・

そのとき少女は文庫本を読んではいなかった。
窓の外の風景を涼しげに目をやっている少女は変わらず清楚であった。

そしてひざの上には黒い筒が握られていた・・・・・・・
あーーーー彼女も卒業なんだ・・・・・・・・・・・・

右前に座ってこちら側にまっすぐ顔を上げた少女を意識しながら窓の外を見ている・・・
あーーもうあえなくなるんだ・・・急激に寂しさが襲ってくる。
時が刻まれる・・・やがて車掌が少女の降りる停留所の名前を告げる。

少女が立ち上がる・・・・
・・・・・そのまま立ち止まる少女・二人は初めて正面から見つめあった・・・・・・

時が止まる・・・・・・・・・・・・・・
少年を見つめる少女の瞳がきらきらゆれる・・・・・・・・・時が止まる・・・・・・・・・・・・・・
電車が停まり、ドアが開く・・・・・
再び時が動き出し少女は硬く唇を閉じ歩き出し降りる。

呆然とその後ろ姿を見つめる少年・・・・・・・・

やがてドアがしまり電車は何事もなかったように走り出す。
西へ向かう電車の正面には早春の昼下がりの陽光がふりそそぎ、海の香りが僕を包む。
少しの寂寥感とそして僕は僕のままでいいんだと許されている不思議な充足感に浸っていた。

そしてそのとき僕は少年を卒業し大人へと歩みだした。

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2005.05.23

青春のわだち 7 孤独

 少年にとって新しい出来事は胸が震えるような事ばかりで自分の無力さに戸惑っていた。

実業高校は通常3年の夏ごろから就職活動に入っていく。
しかしその年は新卒採用にたいして11月1日に就職試験の解禁という紳士協定なるものができていた。
ところが裏を行く企業が続出、企業見学会なるものが行われアンケート形式でテストをし解禁日以前に内定されて行くものが増えていった。

僕が志望したのはM放送では紳士協定がしっかり守られた。
一次試験、2次試験、面接とこなして行き最後の面接の結果「不悪ご了承ください」との不採用通知を受け取ったのは年も押し迫っていて、めぼしい就職先はすでになくなっていた。

同じころ嫁いでいた姉が結核に感染日赤で長期療養に入った。
およそ不幸などというものは、小説やラジオドラマの世界でしか理解できなかった少年は次から次と襲う身の上に戸惑っていった。

年が明けて大会社の下請けサービスの会社に内定されメーカーの修理サービスの仕事で社会人となっていくこととした。
そんな時M放送の子会社「M映画」から2次選考の結果で採用通知が舞い込んだ。
当時ビデオが発明されていない時代であったからテレビは、スタジオの生放送と、映画フィルムでの取材が行われていて、今から思えば時代の先端を行く企業であった。

だが僕はそこを無視した。・・・周囲に相談したりする親しいものもなく年老いた両親はもっと時代にうとく僕は孤独ですねていたのだろう。
そうした心理状態というのは路面電車での通学時に読む小説の世界に影響されていったことが考えられる。

人生にたいする考え方は実際の社会から獲得するのではなく、言えば虚構の世界である小説の世界から得ていたといえるのだ。
たとえば太宰治やヘルマンヘッセの「車輪の下」の主人公に自分を重ねていた節がある。


 その年安治川に大きな橋が開通した。
それにより自転車通学が可能となり3学期は路面電車に乗ることはほとんどなくなった。

取り残されたようで、なにか大きな忘れ物をしてしまったような孤独な僕はそれを奥深くしまって、ただひたすら卒業までの時を過ごしていった。

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2005.05.02

青春のわだち 6 巡る季節

 1960年5月の国会強行採決により安保改定が可決されて以来安保反対内閣打倒のデモは様々な思惑を秘めながらも、国民全体のうねりのような支持を得たように盛り上がっていった。
60年安保闘争が日本の近代の歴史のなかで大きな意味を持つ出来事であったと捉えられているのだ。
その流れは、「反米闘争」「ブルジョワ打倒」「内閣打倒」「民主運動」「戦争反対」「軍備反対」などのそれぞれの立場でのイデオロギーがあった。
そしてセクトにおける言論武装にも流動的な内部矛盾を抱えるようになっていった。
また闘争する側にも内部対立を生み「権力闘争」が発生していったといえる。
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政府としてはかかる情勢は国家の存亡にかかわることであり、あらゆる手段を講じてこれを沈静しなければいけないことであった。

権力と密接なつながりがあった支援組織が各地で右翼団体組織となり反権力に対する行動と示威活動、および煽動による内部瓦解の工作等の組織として確立されていった。

このことが闘争の最終局面で大きな流れを作り出すことになったように感じる。
各地のデモで煽動し、暴力的な破壊行動に出るものが続出していった。
全学連主流派を主とした過激な行動がその煽動する動きとぶつかりお互いに引くことができない局面にむかっていったのだろうか。
誰かが犠牲になるまでそれは突き進んでいった。

右、左を問わずその渦中にあったリーダーにとって誰かが死んでくれることが必要であったというのが当時高校3年だった僕が何も知らなかって45年後の今感じることだ。

樺美智子が死んで3日後19日午前0時日米安全保障条約は自動的に批准された。

 すべての運動が急速にしぼんでいった。
高放連の活動も第一回の機関紙の原稿ができた時点でなんとなくずるずると発行が延期されていった。
親睦活動はそれぞれブロックで行われていったがそれ以上何かが生まれてくるというほどの意義が見出せずその活動に力が入っていかない僕があった。


 夏休みに入り、一人学校に出てきて部室でSPレコードを聞いている。
そんなある日、担任の先生から連絡が来る。

加藤君が死んだ」・・・・・・・・・

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 人生なんてわけわからん・・思ったように行かないものなんだ。
いったい何ができるのか、何かできたのか、結局何もないんだ。
こんな子供の僕がいくらがんばったって何もできない、どうすればいいの?・・だれか助けてくれ・・・・
加藤君の棺の中に花を手向けながら僕は心の中でわけもわからず震えていた。


その夏休みはづっと学校に一人出て数百曲のSPレコードを聴いた。
ぎらぎら照りかえる誰もいない校庭の朝礼台に立ちトランペットを吹き続ける。
なにか得体の知れないものから逃れるごとく一人でただ時を過ごしていつた。
僕が進む先には確かに道がある、進んだ後には思っても見なかった道だが確実にわだちが残る。
でもなぜかその先は本当に道があるのかわからなくなってきて震える。深い霧が立ち込めていて立ち尽くすばかりであった。

夏が過ぎ、秋が来る
季節は巡っていった。

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2005.04.30

青春のわだち 5 高放連発足

1960年の年が明けても長い髪の少女と出会うことはなかった。
思いはつのり、毎日遅れてバスに乗り、路面電車への乗り換えの停留所へダッシュすることを繰り返していた。

 春はまだ遠い寒い朝、いつものように遅いバスに乗り、いつもの停留所で路面電車へ走る。
停留所には20人以上が乗り継ぎのため待っている。
そこへ走りついたと同時に路面電車が入ってくる、そのとき走ってきた人影が僕の隣に立ち息をはずませる。
あーーーーーっ長い髪の少女だ!・・・・全身に電気が走り、僕は呆然と立ち尽くした。

それ以来長い髪の少女に出会うことはなかった。
僕より年上であったろう彼女はその春高校を卒業してしまったのだ。
でもあのときの感動があって僕は幸せだった。


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6月の安保批准がせまってきて日本中は騒乱状態となり、日米首脳、大使の訪問阻止運動となり警察、機動隊、右翼、全学連、代々木、労働組合、文化人、双方が入り乱れての嵐が吹き荒れた。
ハガチー大使が横須賀訪問のときはデモ隊が車列を包囲し、その上にのぼり窓をやぶるなどの緊急事態となり駐留米軍のヘリコプターがその中へ強硬着陸し、危機一髪で大使を救出する事態となり政府はますます追い込まれていった。

いかなる方法をとろうともこの局面を打開しなければならないと徹底した力で封じ込めることとなっていった。
そのため走り始めた運動は双方の憎悪を生み各地で負傷者を生み、やがて国会議事堂突入のとき東大生樺美智子がなくなり運動は最終局面に突入した。
当時大学生の組織は「全学連」主流派、反主流派、または代々木派、反代々木派と呼ばれていたようだ。

3年生となり放送部の部長に就任した僕は暴走を始めた。
顧問の教師が市民運動にかかわっていた関係である提案を持ってきたのだ。

その当時休眠状態にあった「全国高校放送部連盟」なる親睦組織がありこれを動かすことにより全国の高校の組織を作ることができるのではないかというのだ。
わけのわからないままその手立てを指導され、ついに関西50校ほどの高校放送部を馬場町NHKの会議室に集結させることに成功した。

幹事校との最終打ち合わせでは政治色を出すのは大変危険でありあくまでも親睦団体ということで発足させようということになった。
当時大学生中心だった運動は高校生を巻き込み首相暗殺を計画し上京した高校生が逮捕される事件が発生公安警察として高校生の全国組織が生まれるという事態に周辺はうろたえていたに違いない。

第一回組織の発足会議は予想外に紛糾した。
深く社会情勢をしらないまま組織を立ち上げようとした僕にとっては周辺の騒がしさに戸惑っていた。
広い会議室のそこかしこに得体の知れない大人がいたり、廊下にも張り付いていたりするのだが当時それが何を意味するかなどまったくわかっていなかった。

ただ、その議長としてこの会議を成功させねばならないというプレッシャーと戦っていた。
第一回組織の発足会議は予想外に紛糾した。
急進的な学校は当然この組織で国と戦おうと意気込んでいたのであろうか、あくまでも親睦的な組織をもくろむ僕に挑戦的であった。
進行はことごとく僕の失敗となって荒れていった。
もともと議事進行の技術などなかった。ましてやいろいろな意見を受け止めまとめていく技量は技術力以外にその人間力が必要であったのだ。

会議はやがて沈静化していった、急進的な発言をするものはあきらめたのであろうか、あくまでも「親睦団体」までの明文化しか認めず強引にそのように採決していく僕に対しあきれていたといえるのだろう。
それとやはりまだまだ高校生にまではその社会性が及んでいなかった時代であったといえるかもしれない。
「親睦団体」ということでも十分魅力的であったといえる。

僕はこの活動が非常に危険な組織に変貌する可能性があることにそのとき気がついていった。
だから怖くてあくまでも当初の打ち合わせどおり「親睦団体」であるということをこだわった。それは発足できなくなるような大人の圧力が及ぶであろうと恐れたのだ。

会議は結局参加全校がその組織に加わるということとなり関西を数ブロックにわけその下に5から8校の会員校が入る月一回の会議を行う各ブロック会議の主題は、制作番組の紹介が主となるなどの具体化がなされ、機関紙の発行、早期に全国に呼びかけていくということが決議されていった。
ここに「高放連」が発足することとなった。

その間にも全国の反政府デモは荒れに荒れた。
国会でも議員を中心に連日あれた。
もう批准までの日は差し迫っていたのだ。
裏工作がなされ逆にどんどんその日程はこなされていった。

今思うに樺美智子さんがなくなり体制批判が一気に暴動へと向かうかと思われたが意外とそれは逆効果となっていったように私は感じる。
それは日本人の国民性と無縁ではない、被害が自分にも及ぶのではないかという無意識の思いが周辺で充満して行った。
あまりにも過激に破滅に向かって進んでいく運動に戸惑いが生まれていったといえるのではないか。
それはそれほど激しく全国で荒れているにもかかわらず「批准」に向けての日程はことごとくこなされていったのだったから。


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運動の跡をたどるときその跡は二本のわだちとなって行く様がこのとき生まれていったように感じる。
なぜ東大生樺美智子は死んだのか・・・・。

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2005.04.08

青春のわだち 4 埋没

 2年の夏になり、なんとなく大学へ行くことは不可能だと悟りだした。

加藤君は相変わらずがんばっているようだが、僕は勉強よりも卓球部の練習に打ち込むことがなんとなく時間がすごせるし、朝は文庫本の少女や長い髪の少女に会えることを楽しみにできるしクラブが終わったあとはみんなと商店街のアイスクリーム屋さんや回転焼きやさんで時間をすごしたりできるし・・・夜は深夜ラジオを聞きながら五球スーパーラジオやFMラジオなどを組み立てたりそんな怠惰な青春に身をゆだねていった。

 そんな間にも時代は激動の展開となっていった。
60年6月の日米安全保障条約の批准まで1年となり炭鉱労働争議や学内改革の運動のすべての方向が安保粉砕と内閣打倒の運動へと収斂されていった。
その規模は日を追って激しくなり各地で暴動の様相を示し、機動隊、デモ隊双方に負傷者が続出していった。

政府もその対応に苦悩を深めていった。
このまま行けば批准までの両国関係者の訪問打ち合わせが不可能となり、国家の存亡おもゆるがせる事態と捉えられていった。

 ここに戦後の混迷の時代から新しい時代の国の根幹の基盤が形作られていった。
それはひとつの時代を生み出す闇の部分も含めて昭和のわだちとなっていったのだ。

 民衆の要求を表現する左翼思想、それを抑え、現代思想の普及、政府の負の力を代理する右翼思想、それはみな新しい資本主義の確立のために必要なことであった。
そしてそれは必ずしも民主主義の確立のためではなかったというところにやがて昭和から平成へと時代が変わるときに露呈する混迷の時代を作る黒い黒い闇となったのだった。

 理想論に燃える若者たちはそのような未来を予測したからこそ、その運動にのめりこんで行ったとはいえる・・・
しかし現実は力の支配が最後に勝つという歴史の鉄則がこの昭和日本でもやはり行われていったのだ。

 長い髪の少女は妖艶さを増し僕を虜にしていった。
少年が大人へと変わっていく摂理であったのか、そのふつふつとした情念に僕はその闇に埋没していった。

 突然僕は生徒会直轄の放送部へ入部したいと申し出た。今まで生徒会役員と学級委員長が入るものであったがぞの前例を破り強引にもぐりこんだ僕はその情念のはけ口をそのクラブの改革に没頭していった。
強引に予算を獲得し、放送スタジオを作り日々番組を制作昼休みに時事ニュース、小説朗読、映画解説などの
番組を流し、先輩をたずねての録音番組など。そのうちにこの活動がある種の思想を作り出す可能性に気がついていった。

時代はトムドーリーなどのカンツリーウエスタンからフォークソング、ロカビリー黎明期に差し掛かっていた。新しい音楽が、社会に受け入れられることはやはり若者の間からであった。戦いのさなかにありその連帯の道具として音楽が重要な役割をする黎明期でもあった。

その時代はワシントン広場からやがて世界中に広がるその黎明期でもあった。

60年を向かえますますデモ隊は荒れ機動隊との激突は戦闘状態といえるまでになっていった。
そんななか僕は相変わらず悶々とした情念の中ひたすら放送部の活動にのめりこんでいた。

 長い髪の少女はぷっつりと出会わなくなってしまった。
病気なのか・・・思う心は少年の心に狂おしい物となっていった。

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2005.03.05

青春のわだち 3 赤い変節

僕が、高校生になって感じたことは人生は社会に生きることなんだということだった。
それは、中学時代に読んだ「次郎物語」でなんとなく感じていたことだった。
戦前、政治への庶民の運動のような展開で物語りは未完のまま終わっていた。

そして今、戦後の復興期となりその抑えられていた若者の思いが爆発しだしていた。
時代は僕たちが変革し作っていくのだという思いであったのだろうか。
戦前までのある種の弾圧から解き放たれた庶民は、自分たちの社会を作るためにということのため国家に異議を唱えだしたのだ。

戦後の経済の変革により、さまざまな部分で争いが発生して行った。イデオロギーや労働者の権利擁護が戦後民主主義のテーマであったからそれは燎原の火のごとく日本中に広がっていきやがて大学生が中心となりその激しい戦いの中に組み込まれていった。

1960年6月の日米安全保障条約の批准阻止に向けて日本中が社会運動の激動の時代に突入していった。
その規模は日に日に大きくなり全国の労働団体、大学、文化人が数十万規模で路上にあふれていった。
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僕たち高校生は事の成り行きに呆然としながら、やがてクラス討論がなされるようになり日曜日は大学生のデモ行進に参加するものも出てきた。
僕も大阪扇町公園での集会に参加したりするうちその膨大なエネルギーに触れ精神の高揚と何かをしなければいけないという突き上げるものがあった。
ただ、そのころの高校生はデモを面白いからという気分で捉えるものが多く運動の当事者もあまり快くおもっていなかった節があり巻き込むことへの躊躇が感じられた。

そんな中僕は大学へ進みたいという思いを断ち切れないでいた
実業高校から大学へ進むということは当時ほとんどなく、当然就職し親の助けをすることが普通の時代だったのだ。

その中で加藤君はやはり大学を目指していた。
進学するにはどのような方法があるかなど語り合っていくうちにその現実の厳しさがますます理解されてきた。

親に金銭に余裕がある家庭は私学に進むことで方法はあるのだがそうでないものは学力だけで挑むしかない、しかし実業高校では日常の勉強はまったく大学向けのものではなくむなしい時間が続く。
また予備校とか受験に向けた資料もない時代、孤立無縁な僕たちには途方もない壁が立ちはだかっていた。

ただ、クラブに打ち込む以外になかった。
夏が来て冬が来てまた春が来る。
その間にも、通学の朝の路面電車では文庫本の少女は変わらず清楚でいた

でも僕は少し荒れていた
少年が大人に変わっていくために誰もが通ることであったのだ。
世の中が大人に対して激しく戦っている、僕は自分の夢がわからないでいる。
夜更かしをしては学校に遅れていく、勉強もする意味がなくただ音楽を聴き、クラブ活動で汗を流し、聞きかじった社会の現象について語った。

朝遅く起きるといつもの路面電車では間に合わなくなると、バスに飛び乗り終点近くの乗換駅で路面電車に乗り換えることが多くなってきた。

そのとき同じようにバスを降り走って路面電車の停留所に走る長い髪の少女がいることに気がついた。
もうすでに大人の淫靡さを持つようなその少女に僕は心を奪われていった。

長い髪の少女に出会うためにいつもバスに乗る僕があった


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2005.02.24

青春のわだち2 時代

kemuri 彼が通う実業高校は、その都市の西北地区で大工場から町工場までひしめき あう町の一角にあった。
明治の富国強兵政策により、大量の職工を必要としたために創立された日本最古の実業高校である。

彼や彼女が住む町は港湾に面しており戦後の工場の地下水汲み上げによって地盤が沈下し、埋め立て造成されて町並みはすべて新しく作りなおされたが、港湾労働者が多くすむ低所得層の地域であって、新しい時代の到来を期待しつつ、ただ働く以外知らないといった、家庭環境の中で育って来た。
ほとんどの子供たちは平等に貧乏だったし、勉強よりも外で走り回っていることが多い時代だった。

 通学の路面電車では、彼女は、必ず文庫本を読んでいた。

彼もやはり文庫本を読むことが多く、彼女とは目を合わせることもあまりない。
 男子校の彼と女子校の彼女がお互いの存在に気がついたとしても、声をかけるという事は全くない、そんな時代であった。

彼はひたすら、学び、運動に励んだ、それが生きることだと信じていた。
彼女も又そのような時代を生きていたのだろう。

時代は急激な変貌を遂げようとしていた。
勤勉で実直、人と人のつながりを大切にし柔和な国民性が空前の生産性をあげていった。
それは敗戦のあとその復興を生きることの証として皆が家族とともにある明日を夢見ていたとも言えるだろうか。

その間に国は独立国となり占領軍は東アジアからの風を食い止めるための駐留軍となり着実に友好国の名の中でその傘下に組み込まれていった。

 時代は世に言う60年安保の嵐が吹こうとしていた。

季節は巡っていった。

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2005.02.12

エスカル号発動 ギャーガギャーガ1958-4-1

wadati青春のわだち プロローグ

 僕が住んでいるのは、とある都市の海に面した町である。
昭和30年代はまだ路面電車が走っていて、片道40分の都心の
実業高校へ、3年間通うことになった。
romen

通いはじめてすぐ、2つ目の停留所から乗ってくる
女子高校生がいることに気がついた。

 僕の学校がある終点の停留所から、まだ郊外へ向かう
私鉄に乗り換えていく、清楚,可憐な少女であった。

いつも文庫本を読んでいるその少女はそれから3年間僕とほぼ毎朝その満員の、通勤通学路面電車で見かけることになったのである。

 昭和30年代は日本が大きく変革を始める胎動期であった。
敗戦の精神の荒廃と、貧困の生活の中に、新しい時代が近づいていることを、均等に貧しかった庶民が夢を膨らませ、禁断の消費文明を手に入れようとしていたのだった。
 大都市の中の町工場がどんどん大きくなり、煤煙と亜硫酸ガスの中で、大人達はひたすら働き、子ども達は皆平等にその時代を生きていた。

 新しい時代は怒涛の勢いでやって来ようとしていた。

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