カテゴリー「●メモ 人間の考察」の45件の記事

2008.08.19

電脳論16 撓めが奇跡を生む

相変わらず、もっともっと究極の局面の連続である。
新店開店したのもつかの間、その形を受けて4店舗もの依頼が来た。
折衝を続ければ続けるほど、受けざるをいけない羽目に陥ってきた。
それも開店期日の取り合いとなってきて同時OPENか?てな様相・・・・・・まあまだ決まったわけではなくそのうち何店かわ脱落の可能性もあるが「不撓不屈」の精神で立ち向かうのみ。

逃げるわけにはいけない、・・・づっと逃げないでやってきた・・・・・・・

長男、次男、と僕で開店準備室が開設された。近いうちにシステム担当も駆けつける。
やるしかない、逃げない。
駄目な理由ならいくらでもあげることは出来る。「不撓不屈」は理論ではない・・・・・自ら作ってきた世界だ。


僕のいう「撓め」は若いころは「矯め」に近い感覚つまり金属を曲げる行為に近かった。
経験をつんで、壁を乗り越えるに従い「それに加えて「押し込む」ような感覚・・・たとえて言えば次のような感じだ。

生まれたころは自分の世界は手の届く範囲、見える範囲が人生の全てであった。
育つに従いその世界は広がっていく、それは己の意思とは無関係に広がっていく。
自転車に乗れるようになったら、少し冒険して今まで行ったことのない隣町まで走っていく。
新しい世界を見ることになる・・・そのような経験をつづけて自分の地図を作ってきたのだ。

あるときは犬にほえられその付近には近寄らなくなる、徐々に広がっていく地図がいびつになっていく。
あるいはおまわりさんに怒られてあまり遠出をしなくなったりする。

そんなときが「魔界」の罠にはまるときだ、自分の居心地のよい場所にしか行かなくなる。
それは地図の領域を広げていくことにはならないでその居場所を掘り進むことになる。
それが社会的に認められる分野という宝物がうまっていたりすると、それは「天才」の道だ。
でもそんな場所はなかなかないのが普通だし、深く掘ることも困難を極める・・・ただただその場所でうろつくのみだ。

そうなってきたとき、僕たちは思い切ってその場所から逃げようとするが逃げようとする必要はないのだ。
その周囲を押し広げるように広げては戻ってきたほうがいい。
やがていつの間にか居場所は広がっているのだ。
行ったことのない場所、苦手で近寄らなかった場所には必死でもいいから行ってみよう。それでしか世界は広がらない。

自分の性格を変えようといろいろ世界を広げる作業を続けてきた。
でも世界を広げれば広げるほどだんだんと見えてくるものがある。自分の元居た場所は今もしっかりとあるということだ。
性格を変える努力なんて要らない、それはそれで大切な心なんだ。その周囲にどんどん広げていくことだ。

性格なんだからとあきらめることはないその周辺の世界を広げることでそんなことは無関係だとわかってくる。
大冒険が待っている不思議で素敵な世界は誰にでも広がっているんだ。

大きな世界を作ることで一杯の奇跡を受け取るのだ。

「不撓不屈」はその先でしかはっきりと理解できないことなんだなあ。

p.s.
そういうことでここ2ヶ月ぐらいはまたまた不眠不休となる。
ということで時々消息確認のためと業務連絡で書くことがあるでしょう。

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2008.08.02

電脳論 14 魔界伝説3

僕のいう「魔界」について考察してみる。

僕たちは社会の中で、生きていくために、日夜「闘っている」。
闘っていない人が淘汰されていくのだ。
あーー「スカイクロラ」だなあ。

「戦う」・・とは僕が良く使うフレーズだが、別の言い方をすれば「がんばる」だ。
現象から言えば「社会でもまれる」・・・・中田風に言えば「人生とは旅である」だ。

そして僕のいう「人は人と過ごす、それ以外に選択肢はない」なんだ。

その過程で、いろいろな出来事に遭遇して僕たちは心を鍛えていき楽しく生きる技術を身に着けていくんだよね。

実に単純なんだ・・・・たとえばそれは日本語を覚えるってことに置き換えて考えてもいい。

幼い時から脳回路が増殖、淘汰しているときに人と過ごせば過ごした状況のとおりに吸収していくわけでそれ以上でもそれ以下でもない。

その「人と過ごす」ということが現実の世界で、それ以外を「魔界」とここでは表現している。

「テレビ」「小説」「漫画」「アニメ」「音楽」「ゲーム」「金儲け」「美」「出世」・・・・それは人と過ごす世界に混在しているわけだ。

本来そのような「魔界」世界は人と過ごすためのツールであった・・・だがどんどん競争が激しくなってきてある種の「捏造」が蔓延してきた。

発信する本人が儲けるための、成り上がるためのツールとなってきたわけだ・・・そして・・・・・・・・
その「魔界」で勝ち残るために往々にして「人と過ごす」という世界を犠牲にして・・または「人と過ごす」ことを避けて、または苦手だから・・・・「魔界」に身を投じるわけだ。

魔界地図はそのように書かれている。現実世界の地図ではない。


現実は地球規模で、生き残りのため勝ち残るため必死の攻防がなされている。

大人はみんな戦っている・・・・でもね、闘っているから素敵なんではないんだなあ。
自分だけが生き残るために闘うんだから何でもありになっているんだ。


ちょっと輻輳してきた、寝る(笑)

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2008.08.01

電脳論13 魔界伝説2

魔界から送り込まれるメッセージは少年少女に確実に届いている。
それは疑いようがない。

「魔界からのメッセージ」とは大人になるためには必要な部分ではある。
ただ、基本的なツール能力を失ったときそれは地獄編、煉獄編として顕現する。

「孤独」の罠にはまったときだ。
人は人と過ごす・・・・・生きるために必要な基本的なツール・能力が備わっていないとその「孤独」の罠にはまる。

「ひぐらしの鳴くころ」は不気味なメッセージがある・・・・かわいいキャラクターの奥に潜むものは幼い少女にどんなメッセージをとどけたのだろうか。

バトル・ロワイアルでは最悪のパターンでメッセージを受け取ってしまった少女が居た。

バイオハザードでは僕の子供たちも衝撃的な影響を受けて心臓検査までして彼らは自発的にそんなゲームを封印した。
もっと生きることに必要な「仲間と作る音楽」というものに目覚めていった「天国編」が彼らを救ったのだろうなあ。

「孤立」をあなどらないように!・・・それは魔界からの罠だ、脱出せよ・・・・・

最近のストリートファイターの実行者たちはそのような殺戮の魔界伝説を現実のものとして受け取っている。
そのゲームをやってみたら理解できることなのだ。
今のゲームがいかに現実的な描写をしているか。
もはや実写よりも現実的な世界なのだ。

子供たちの心の世界に大きな要素として「魔界」地図が刷り込まれている。

いまや誰しも「闘う」というスイッチが入ったときはいとも簡単にストリートファイターになりうる。


「お前の母ちゃんでべーそ」とまったく同じ「戦闘」なんだ。

さあ、飲み会やろうぜ!(笑)

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2008.07.31

電脳論12 魔界伝説

先月8店目が無事開店したのだが、次の店の計画が進行していて息を抜けない。
ただ、電脳論としての心の解析をしている僕としてはここのところ避けていてはいけない事件が一杯起こっていて急遽書いておくことにした。

通り魔事件が多発している。
僕はこの現象が良く理解できるのです。
誰しもがこのような心理状態を経験しているのですが、そんなことはとっくに忘れていることが多い。

それは大人になったってことで終わらせることも可能なのですが、実はそのことが、通り魔事件の真因だとまで僕は思っている。

孤立して、思うように行かない・・・苦しい・・・不満だ・・・愚痴がでる・・・腹が立つ・・・
誰かの悪口をいう・・・この現象は物理現象です。

電脳論としては、なんの不思議でもなく、プログラムがそのように書かれているのですから。

そこで「誰かの悪口を言う」という部分ですが、これは攻撃態勢に入ったということですね。

「おまえのかあちゃんでーべそ」って言ったことありません?僕の子供時代はよく言いました(自爆)

それはそのような「攻撃戦略」しか持っていなかったことにほかならない。

エンタツやあちゃこ、こんちゃんたちがよく言っていたことを取得したに過ぎません。

「殺すぞ!」って言葉なんかは辞書にもなかった・・・はははは
その武器はいつごろ魔界から送り込まれたのだろうか・・・そうだなあ、漫画でいえば「お前はもうすでに死んでいる」なんて「3年殺し」ぐらいからかなあ。

柔道や、相撲から戦うことを学んだ時代は相手を投げ飛ばした時点で勝負は終わりみたいな喧嘩があってあまり怪我をするなんてことはなかった。

「蹴飛ばす」って武器はプロレスからかもしれないけど「回し蹴り」はブルースリーからだろうね。
あいや、そのころバラエティーで所得番付1,2のタレントがやった影響は大きいと思ってる。

僕が「肥後の守」を持っていた少年時代、これは折りたたみナイフなんだけど、使い方によってはジャックナイフのような雰囲気になり、かっこよかった。

鉛筆削りはナイフしかなかった時代だったから普通に持っていても不思議ではなかった。
野原で遊んでいた少年時代はそれを壁に投げつけて、忍者の手裏剣ごっこだったりした。
たまに喧嘩して怪我をさせる事件も起こったけど血が出ただけで敵も見方もおどおどしたもんだし、子供の喧嘩ですんだんだ。

さーそのように戦闘の文化を考えていくと今の攻撃態勢を魔界はどのように送り込んだのか。

ゲームと、アニメだよなあ。
「イデオン」「アキラ」世代が起こした宗教団体の事件は実に象徴的なことだった。
最終武器で世界を変えようとした。

最近の事件で共通なことは、孤独だと感じる。
孤独だとどんどん自分の心の中だけで戦いを増幅してしまう。
時代が変わってこのような現象を「魔界からの指令」などと言い出すのかもしれないなあ。

僕たちは忘れている少年のころの心を思いおこさねばいけない。
自分の心を知り、本当に大切なのは「魔界」と戦う武器を得ることなんだ。

僕たちは少年のころから周囲を観察し真似して生きてきた。そして大人になった今真似されてもいい文化を子供たちに示しているだろうか。

神戸事件の少年の日記の1節につぎのような部分がある。

「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺はまっすぐな道を見失い、暗い森へ迷い込んでいた。」

そしてこれでさえ少年は大人の文化を真似したのだ・・・ダンテの「神曲」・・そしてそれを真似した「聖闘士星矢」・・・・ああ名前までもが・・・・・・

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2007.12.21

捏造の論理12 国会がUFO迎撃計画

国会で、UFOについての質問が出され、内閣は未確認だとの見解を出した。
官房長官は個人的には信じているなどと発言した。

無責任な発言である。
まあ、楽しいからという範囲内ならOK!でも質問者は受け狙いであったりするしどちらもどちら。
テレビはまたももっともらしく妖しげな映像をまたも垂れ流しているんだよねえ。

コメンテーターも、今までUFOの存在を信用してなかったけどこの前見たんですなんていう始末。

みんな、自然現象とか見間違いや思い違い錯覚なんだって。

「二つの光が動いていて急に戻って亦反転して消えてしまった。。」

なんてUFOは飛行機の前照灯(飛行機にもヘッドライトはある)が雲にあたってUFOのように見えたりするんだけど、くもの形によってその光りが行ったりきたりして突然消えたりするわけで、このことはちょくちょく解明している人がいる。

夜に山のくねくね曲がった道路をあがっていく車のヘッドライトでも同じようなことが起こるんだけどね。

以前アメリカで遠くに弓のように並んだ光りが遠くの空に長い時間止まっていたなんてこともあったけどその後の調査で遠くの山の上で演習の照明弾が木の上に引っかかって稜線に沿ってしばらく光っていたことの見間違いだった。

あそれから最近富良野などの晴れた日の写真に写ったUFO写真が出てくるがこれは鳥が飛んでいるだけ。

横向きで翼を羽ばたかせている瞬間を固定すると少し翼がぶれるので金属のように写りあのようになるのだけど、だれもそんなこと知らない振りするんだよねえ。まったく困ったもんだ。


・・・あーーちょっと忙しくなってきた・・・今日はとりあえずこれで。

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2007.11.01

電脳論11 心、野に咲け

人はおのれの心に翻弄されて生きている・・・・・
そのことで自分を責め、苦しみ、ついには他人まで苦しめることになっている。

心は僕たち一人一人に存在しそして僕たち一人一人にそれはゆだねられている。
僕が何度も書いてきたように心は自分で経験したことを学習して作られてきたものだ。
生物の中で心を持つものと持たないものがあるのだろうか。

僕はすべての生物に心は存在すると思っている・・・ただし今の人間のような複雑な心と言うわけではない。
それぞれの生物の観察、記憶、検索、比較と実行の能力はそれぞれの生物によって差があるわけで・・・

たとえば犬を考えてみる。

愛犬家なら即座に答えるだろう・・あると・・
犬は自分という意識を認識している・・・僕はそう思っている。
生物の中で猿の仲間が人間に近いといわれているが近年の研究で今や言葉に近い表現をする固体が現れている。

自分の存在を意識するところの僕たちの心のあり方は特殊なのではない。ではなぜ自分という意識があるのか。

それは目鼻耳とうの機能と神経に他ならない、、過酷であるが思い浮かべてみよう、
見えない、聞こえない、しゃべれない、痛みなども感じなくなったとしたら僕たちは自分という認識をどのぐらい持ちこたえることが出来るか・・

それまでの経験が多ければ長くなるだろうがたとえば生まれてすぐそのような状態になったとしたら・・・・・・
外界を認識することが出来なければ自分を認識する心は生まれないのではないか・・・そのような禁断の論理に到達できる。

僕が電脳論で分析することの中枢はそのことだ。

人は経験することをすべて受容しそのように作られる・・それ以上でもそれ以下でもない。
時々言うこの僕の考えはそのことを言っているわけです。

そのように考えることによって社会の不都合な現実の原点が見えてくる。
今社会は混迷しているわけなんです・・・温暖化についても真に地球の未来を考えること以外にどうすればそのことで儲けることが出来るかが本当は世界の関心ごとなんですよね。

食品の偽装、捏造などは、薬害による苦しみを知らない人にとっては薬は人を救ってくれるもの、莫大な利益を生む宝物にしか見えてこないことと根源的にはつながっている。なにが正しいことなのかは心の仕組みがわかっていなければそれは幻影を生み捏造のわなにはまるのだよね。

心の仕組みは単純なんだ。
僕たちは難しくしすぎてきた。

人は生まれてひたむきに生きて、人と過ごす・・それだけで幸せなんだ・・・・・
それは野辺に咲くひな菊のように人をののしらず、ひっそり優しく香り、ささやかな幸せを残してくれるのだ。


僕には姉がいて数年前なくなった。。。しかし実は別に父親違いの姉がいた・・・僕が中学生のとき乳飲み子を抱えて僕のうちにやってきた・・・・・ひゅんひゅんひゅんひゅん

母親が僕に平然と言った・・・・

「あきこ姉さんだよ!」

「えっ!・・おねえさん?・・・・どうも・・・・・・」

突然姉が一人増えてしまって戸惑っていた・・・・・・・・・・

時空魔神エスカル号の冒険 ■ひな菊は野に咲け につづく・・・・・

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2007.10.06

捏造の論理13 メキシコ空軍UFO事件

最近は会社は激動の毎日を過ごしている。
たった一度笑うために・・何度でも泣いたっていいや・・・・
まさにそんな状況・・・

苦しいときは心を解放させねばいけないよね・・はははは。

この前テレビでUFO特集をやっていた・・・
相変わらず何でもありの無責任な番組だ・・・でも面白いのもたしか。

中でもメキシコ空軍機が撮影した赤外線撮影機でのUFOフィルムは国が認めたUFOとして数年前話題となった。
時々色々な番組や本で取り上げられる。
次の写真がその一齣だ。

Ufomex


実際のフイルムはパイロット同士の緊迫した会話やメーターの画面などがあってすごいものだ。

でもそれに疑いを持っている人はいるのだ。
やはりメキシコ付近を何百回も飛行しているパイロットがそれを解析している

海上のガス田の掘削プラットホームの炎とサイトを公開している。

Oilufo1

昼間の写真は次だ。


Oilufo


いやーー痛快だねえ・・実際には膨大な資料と写真で完璧に証明しているのだが世にはあらわれていない。
僕がこのカテゴリーで書いてきたように世の中なんでもあり・・捏造が真実とされていることが実に多い。

メキシコのサイトは次だ・・・・・・・真実を知ることは己を知ることにつながる。
本来的自我の脱却には誰もが通り抜けねばいけない・・・・・・・・
その興奮こそが僕たちの灯台・・・・・・・・
http://www.alcione.org/FAM/FLIR_CONCLUSION.html


今もスピチアルブーム(こんな感じの言葉・・・あえて確認しないところが僕のこだわり)で占いや来世、前世のことをもっともらしく説いて名を上げ生業としている人たちが世の中の救世者の様に振舞っているのだよねえ。

まあそれで救われている人もたくさんいるのでそれは劇薬としてわれわれには必用なことだけどね。
でもそれは薬だとわきまえて僕が言う人生のツールとわきまえている必要がある。
心せよ子供たち・・・・

あーー明日は長男の二十歳の誕生日だよねえ・・・受験生の次男は明日文化祭で高校生活最後のバンド出演・・・・・あーーー人生は不思議が一杯で素敵だ・・・・・・

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2007.09.17

電脳論外伝 GLAY・尾崎豊伝説2

尾崎が路地裏で裸で倒れていたのはなぜか?
いろいろな利権がらみのことで、暴露合戦があって民事裁判があって、尾崎は最後まで真の表舞台に出てくることは少なく、今もって「ただのジャンキー」との評価がまかりとおる。

同時進行で心酔して行ったフアンは何人か友人にもいるが、純粋でたおやか。
理想の世界にあこがれる・・・・・・

TERUは親友の音楽の天才TAKUROとともにバンドを作りあげその絆を確かなものとしていった。
名声や、金儲けが大切なことなのではなく、その過程が大切なんだ・・・

絆は同じ文化を継ぐことでより深くなる・・・・・・・言葉だけで受け継ぐことはまぼろしでもろくも壊れることは世の習い・・・だって言葉の世界はまぼろしであり、音楽そのものや芸術などと同じ。
それは発信する人だけの世界だから。

僕は一貫して言葉の危険を書いてきた・・・・しかしそれが悪だということではない。
音楽や、芸術と同じように人生のツールだ。
そのものに真理があるように錯覚し作られた世界に埋没して心の迷路にはまってしまう事件があふれている。

理屈を抜きにして、人は人と過ごす・・・それだけを信じてすべてに真摯に取り組むだけでいい、
そしてそのように生きていくことが周囲の身近な人たちを救うことになる。


人生は出来るだけ単純に理解していることで一人一人がするべきことが見えてくる・・・・

尾崎!柳!どう?何か言ってよ・・・はははは。

P.S.HIDEとTERUの名前を取り違えていたので、2008/1/22修正
XーJAPANが天才hideが亡き後初めて再出発をするという・・
がんばってください。

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2007.08.27

電脳論外伝 GLAY・尾崎豊伝説

数年前次男AKIとGLAYと尾崎では何が違うかについて語ったことがある。
AKIは僕が思う結論をしっかりと理解していた。
だが、僕がなぜ彼らにこだわるかは具体的に伝えてはいなかった。
Teru_2

僕が高校生から10年間尾崎のように寄る辺なき時を生きていた。その後の10年間僕はGLAYのTERUにその思いを重ねることができる・・・そしてそのことは中田HIDEに対しても重なるような思いである。
尾崎とTERUはその風貌がよく似ている・・そして無二の親友であった「柳」と重なるのですよ。
<Yanagi_2
「中央が柳、下は八ちゃん・・どうしてるかなあ」

彼は繊細で言葉を大切にしていた・・・そしてそれはあまりにも孤高で愛を説いた。
たとえば「絶対の信頼こそ永遠の絆」・・
往復書簡ではいつも僕は正論をぶち、彼はその偽善をそれとなくつく・・・
僕は今、彼にそのことでまた語ることが出来るのだろうかなあ。

「15の夜」で彗星のように現れた尾崎は一気に上り詰めていく・しかし彼はどんどんそれが自分の求めていた言葉の世界と乖離していくことに気がついていったように思う。
Ozaki


そして突然活動を休止して放浪の旅に出る。
そこで彼は薬とゴスペルに出会ったようだ。
戻ってきたときその音楽性はもっと孤高の世界に上り詰めたような気がする。
本当は「永遠の絆」を求めていたのかもしれないなあ。
でも現実は商業主義と偽りの愛と世界が違ってしまった友人たち・・・・
裸で路上に倒れていたとき彼は何を思ったのだろうかなあ。

アメリカに遊んだとき彼はそこで歯科医師研修生の青年に出会う。
青年は尾崎を知らずただ音楽が好きで乱暴だが純粋な心の男として語り合う友人となる。
お互いに夢を語り、青年は尾崎に神を見て、最高の技術を習得するまで日本に帰らないと決意をする。
尾崎は青年に日本で歯科医院を開いたら、きっと行くから待ってると告げて日本に帰る。

数年後青年は日本に帰り医院開設準備のときレコードショップの店頭に尾崎追悼ポスターを見かける。
部下に彼は何物だ?ってたずねると「ただのジャンキーですよ」って答える・・・・・・

青年は以後英字新聞に約束の医院の広告を打ち続ける・・・しかし彼の知る尾崎はまだやってこない。

Ozaki2_3


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2007.08.03

電脳論10 心はいつ生まれるか

健康茶館の2号店開店が遅れている、OPENはこちらの都合でいいのでついつい「まいいか」って感じで遅れる。
でも夏が過ぎてしまいそうで、あせってはいるのですよ。

レジカウンターもできたし、レジソフト「がんばる君WAN対応機」もなんとかできたのでいよいよ今週にはOPENするぞ!

書き込みもできていないので昼飯かっ込んだ後ちょっと書いておきます。
最近「ノース」さんという方に書き込みをしてもらったのですが、彼のBLOGは僕にとって大変意味深いものだ。

僕が青年期から「人とは何か?」と問い続けてきて、この年になってある種の確信めいた考えを持つにいたったのですがその思いを完全に図示されていて楽しい・・というよりも僕の生きてきたことそのものが決して間違ってはいなかったんだという確信となったってわけです。

僕が利き手論からの一連の流れは今書いている「電脳論」に行き着くわけですが、そのことはある種の人への冒涜のように受け取ることも可能なわけです。
でもそのことは本当は人を大切にできると言うことだと僕は信じてます。

なにか得体の知れないもので僕達人間が作られて動かされているのではなく僕達が生きてきたことがそのように僕達を形成しその後の人生に生かさされていく・・それ以上でもなく、それ以下でもない。

「ノース」さんがあるブログでコメントされていたが
--------------------------------------------------------------------------
このシステムは単純なので、コンピュータで再現できるように思われます。
*中略++++
私自身は、「これこそが自分自身!」と思うシステムを示したつもりですが、これを人に伝えるのが困難だということもわかります。これより先は、どちらかというと「教え(?)」よりも「悟り」の世界だと思うのです。
--------------------------------------------------------------------------
はははは、すごい!。

僕もこのように感じてくるようになって、「自分と認識している」ことも思い込みなんだと思うようになってそのことを表現するために、電脳論を書き綴っているのです。

そしてそのことは決して僕達の夢を裏切ることなんかではない。

何かに操られて生きているのではなく、僕達一人一人は生きていくことに自信をもって自分の「意思」で生きていけばいいのだ。
例え結果がうまくいかなかっても、それは自分の意思で生きてきた中でのことなら納得するしかない。

自分を越えていくのは自分なのだ。

僕は人が好きだ・・・・・。

僕達は本能で自分を大切にしているわけで、そのことを認めてくれる人が周辺にいることで生きていける。

単純にそのことだけで人生を捉えるほうがわかりやすい・・・そしてそのことは心は人の脳にあり、脳はコンピューターの仕組みと同じだ・・・と捉えることで僕達がどのように生きていったら良いのかが見えてくると思っている。

生きることを難しくしたり、人生を「個性」や「夢」がもっとも大切なことだ思い込んでしまいその幻影におびえ生きていかねばいけなくなっている。

人は生まれて自分という意思を持った心ができる・・・ってことは心は確かに作られるのだ。
道ははるかに遠いと思ってはいても、やるしかない。
その道程こそ人生だから。

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2007.07.08

電脳論9 万能細胞プログラム

僕の電脳論の考え方は人の脳はコンピューターに置き換えて考えても特につじつまが合わないことは出てこない。
という仮説的な方法論だ。

そしてこのことは科学者の間では半ば「公然の秘密」敵に取り扱われていると思っている。
なぜそのことが表に出てこないのか。
それは現代の世界の混迷とあわせて考えれば理解できる。

それでなくとも、心はパソコンの中にあるなんていったら表舞台から追い出される危険がある。
「温暖化で水面は下がる」とか「環境対策が環境を破壊する」とか「愛は地球を滅ぼすか」

一般に流布することとは違う異端の考え方は現場から提起されているのだ。

AERA 7.9号に次の記事が載った。

京大教授の極秘研究

皮膚の細胞から、心臓や肝臓など体中のあらゆる細胞を作る。
そんな夢のような方法を、日本人科学者が見つけた。

以前韓国の科学者のES細胞捏造事件があったので、彼は極秘にしていたわけだ。

細胞はDNAによりプログラムされていてその役目は決められていることが常識なのだがそのプログラムを作り直す簡単な方法を発見したということ。

それはわかってしまえば学生でもできる異常に簡単なことだったので本人は発表できないで居た。
今はマウス実験だが一年以内に人でも同じことができるようになると予測している。

走れ・・・メロス!!!

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2007.06.08

電脳論8 バカの壁とクオリア

医者で薬をもらって飲んでいる。
肩こりの薬であるが、要するに筋肉をほぐす薬と、痛み止めと、胃腸薬である。
これがよく効く・・しかし筋肉が弛緩するのであろう、気力が失せる・・・眠たくなる。
やる気が失せるってことは肩が痛くて仕事にならないことと同じだああ・ってことで生まれて初めて針治療に言ってきた・・こわかったああああ(笑)

少しは効いたかなあって思うけどまだまだ。
治療に先生が僕に言ったんだ。

「心と体は一体なんです、あなたは心が痛んでるんです・・・私は体を見て触ればわかります・・・・・
一日10分でいいから遠くを眺めて休みなさい・・・・・」

ひやあああああああ、僕のブログみてるんジャーないの?って思いましたねえ。
確かに昨年暮れからの人生最大のプレッシャーの連続の流れはどんどん大きくなって無理をしたもんなあ。
まさに大戦争って表現が正しいんだけど、具体的に書くと色々信用不安などにつながるので・・・(笑)

世間ではコムソンが瓦解しようとしていたりしてみんな必死に戦っているのだから僕も愚痴を言わずにたんたんと頑張りますよ。
まあ今日大きな不安材料をひとつ乗り越えたのでちょっと書いてみたりする。

電脳論はまだまだプロローブあたりをうろついているのですが、そもそも電脳論とは脳はコンピューターと同じだという僕のなかでの思いを書いているわけです。

若い頃はコンピューターの性能も小さくて給料計算ぐらいしか使い道がなかったものが今や2足歩行ロボットに組み込まれて2チームに分かれてロボットが自分で判断してサッカーの試合をするまでに進化してきた。

この場合そのロボットは相手が見えているといえるわけであり、そこに禁断の仮説が浮かんでくる。
ロボットは自分という意識を持っていると。

古くは人間機関説としてこの考えは提起されていたわけですが、人間とは何か?を思って生きていく羽目となったときからすべての事象をその側面から眺め生きてきた。

そして自分がプログラマーの真似事をするようになってますます人間は特別な生き物ではないということを確信していった。

現代、占いや、スピチアルブームが売るための道具として広まってきているとき、脳科学者は必死に自分の説を喧伝しようとして頑張っている。
正に百花繚乱、ますます混迷の中へ迷い込んでいるように思う。
それは、言っていることはよく似ているのだけど、それぞれも難しい言葉を作り出すことにより学者同士のすりあわせにも支障を来たし、若い人たちはその入り口で言葉たちに振り回され、それを自分のを鍛えることに有効に使えないでますます破綻の道を歩むことになってしまわないかと僕は心配している。

「微笑みはただ言葉で知り、そして愛も」ってことです。

いい子でなければいけないという呪縛が今の混迷の本質だとしたら、脳科学者たちの言葉は何の役にも立っていない、小学生までの子供たちにそのような言葉が届くはずがない。

それがバカの壁のクオリアだ・・・意味不明(笑)

養老心理学と茂木心理学はその意味においても同じことが言える。
つまり子供たちを救うためには大人を何とかしなくてはいけないと思っているとしたらそれは正解だ。
それを養老氏は「バカの壁」としてなかばあきらめているように僕は捉えている。
茂木氏はマスコミ受けしてくるに従い僕は危険な領域にさしかかっているように感じて仕方がない。
詳細は書かないでおく、今までづっとそのことを書いてきたから。

さてそのような2氏の方向を僕はある言葉になぞらえることが出来るように感じている。

「色即是空」だ。

「空」が養老氏の「壁」「昆虫」で「色」が茂木氏の「アハ」または「クオリア」だ。

そこで僕の電脳論が次の思いにたどり着く。

「色」は「体験」で「空」は「体」
「空」は「心」で「色」は「プログラム」

色すなわちこれ空なり
空すなわちこれ色なり

あーーみんな空海が言っていたことなんだ。

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2007.05.28

電脳論7 なにができてなにができないか

最近、肩のコリがひどくてとうとう医者に行ってきた。
店のオープンに向けての無理に無理がこたえていたいたわけで、なんか重たい病気かもしれないと思ったんですよ。

パソコンの前で10分が耐えられないほどになってきてとうとうパートさんが勝手に病院の予約を取ってきて車で受付に連れて行かれてしまいましてしかたなく・・(笑)

いまどきレントゲン写真って早いですねえ、あれどうなってるんでしょう、撮影してから1分ぐらいしか経ってないのにできてましたねえ。

30数年前の「キャッチセールス秘中の秘」のシーンの再現でしたね。
まあ結果は、使いすぎ・・・はははは、この若さで使いすぎはないやろ・・・って強がりは飲み込んで素直に薬飲んでますよ。

その結果少し痛みは和らいでるんですけど、昨日は薬のせいか、眠たくて眠たくて、夕方事務所にもどってうとうとしてたら、話題の「パイレーツカリビアン」がテレビで始まっていて、ボーと見ていたら面白くて見入ってしまった。

ワンピースに似ていてわくわく。あれはパクリかもしれないぞ!・・・
そのなかでのセリフで心に残ったものがある。

「何ができて、何ができないかを知ることだ!」

ちょうど電脳論6で書いたことを言葉にした感じ。。。
等身大に生きるとかあるがままに生きるとか、そのことは自分を知ることから始まる・・・ってことで少年のとき知識やゲームで得た能力を自分の本来の能力のように思ってしまう「万能感」にとらわれてしまうのだけど実際の現場でそれが通用しなくなってきてそれを受け入れる作業が一筋縄ではいかないわけで、柔軟にそれを受け入れ新しい舟を出す作業は幼いときに得た「資質」・・電脳論でいうところの「OS」:オペレーティングシステムによるわけだ。

テレビは最後のほう僕は寝てしまって見てない。はははは。

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2007.05.27

電脳論6 どのように走るのか

心のあり方を走ることに置き換えて考えているのだが、なんども同じ事を書くのだけど、僕は心は体の一部分だと思っていて、そのように気がつくことによって僕達はずいぶん思い込みで生きているってことがわかってくる。

それは捏造の論理でも繰り返し書いてきたことなのだが。
無意味な思い込みを取り払って心の中身にたどり着くことができれば、それ以後どのように生きればいいかが見えてくるように思っている。

無駄な苦しいことは体に良くない、そのような試練は走ることと似ている。
いやいや走ることは5倍苦しいことになるんだ。
逆に懸命に走ればやがてすべての事象が開けてくる。

「しろやま2号の旅」のあと僕を取り巻く状況は最悪の時期を迎えていて、閉塞していった。
自分をだせないままおどおど生きてきた少年期のつけが一気に押し寄せてきたように思う。

そんなとき、会社で運動会が催されることになった。
近畿の営業所を8ブロックにチーム別けしての大きな催しとなった。

会社でも、同期のあいだでもどんどん孤立して行ったのだけど、このとき2000メートル走に僕は出場した。
なにか一つでも光が欲しいと思っていた僕は会社から帰ってくると死に物狂いで走った。

文字通り死んでもいいって感じで自分を痛めつけて走りこんだ。
帰ってきてそのまま着替えもせず走りこむものだからある時、乗り合いバスがものすごい形相で走っている僕を見て横に止まって、「乗りなさい」って言ってくれた事もあった。

運動会当日その競技は大会の花となって捉えられていた。
各ブロックからは若手の自信家が出場してきていた。
その中に新入社員の「LIBERTY」もいた。

スタートしてすぐ僕は猛然と走り出して2位以下を半周以上差をつけて最後まで差をちじめることもなくぶっちぎりの優勝をしてしまう。

終わって休んでいると次から次といろいろな人が祝福に訪れる、K代やT子などはきらきらと目を輝かせ感動を気持ちを伝えてくれる。

LIBERTYやその同期の連中も次から次とやってきては来年は絶対負けないから!って笑ってくれて僕はその反響に驚いていた。

そのご地方の営業所に出張してももう僕はヒーローになっていて歓迎してくれた。


翌年も優勝、3年目は強力な新人が現われたと情報が届く。

でも、負けるはずがないとたかをくくっている。

号砲一発スタートして僕は転んだ!。
起き上がって走り出したが最下位にいてその新人は半周近く前を走っている。
激しい追い込みが始まった。
2位まであがってはきたけどその新人はひょうひょうと走り続けて差がちじまらず僕は負けた。
翌年のリネンジのとき彼は会社を辞めていて、僕の走る意味はなくなっていった。

走るということは孤独なんだけど、その中からしらずしらず人と過ごすための力を受け取っていくんだろうね。
考えすぎると結果はついてこない、ただ淡々と走るだけでいいんだ。

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2007.05.26

電脳論5 走り続けるということ

電脳論がなぜ走るという切り口になってくるのか・・・わからん(笑)

心の仕組みをコンピューターにおきかえて分析してきたのだが、思いつくままに書きなぐっているのでいろいろ横道にそれるわけですが、相変わらず世間では不思議な事件が毎日毎日続いている。

僕はそれをほんとは不思議とは思っていないわけなんです。
15年前に確信していたんです。

僕達は経験することを受容し、そのように作られて行くってわけで、「それ以上でもそれ以下でもない」と一貫して書いてきた。

ってことは不思議なことでもなんでもないってこと。
あーーそのように生きてきたんだろうなあって思うわけです。

母親の腕を切り取って、白ペンキで塗って植木鉢にさしておく・・・・って僕には理解できます・・・その少年が不憫で不憫で、抱きしめて一緒に泣きたいような気分です。

脳に、特殊な病気の傷ができたために・・・って事を書く専門家がいたりしてそれはそれであっているんですけど、傷が先か、苦しみが先かって言えば僕は苦しんだ末に傷ついたと読み解きます。

僕達が生きていく上で苦しいことがあるのが普通なんですが、その苦しい局面を冷静に分析できればどのように切り抜ければいいかがわかるのだけれど、そのことでさえ、体験を通じてしか打開する方法を思い浮かべることもできないのが若いということなんだ。

僕が小学生だったころそろばん学校に不登校になって、づる休みしていて見つかっておやじに激しく怒られた。
それ以来僕はおやじに対しておどおどし、なかなか正直に自分を表現することができなくなったんだ。

そしてそれは中学2年のときもっともっと僕を孤立する事件が起こった。

YMCAの英語学校に通っていたのだけどあるとき学校から学期中の出席表が送られてきた。
そこには5日間ほどの欠席となっていた、
そろばん学校事件以来、決して悪いことができなくなっていた僕はお袋に言い訳をして学校に再調査を依頼することにした。

調査の結果間違いであることがわかり、その書類を作ってくれたのだが帰る途中その書類を紛失してしまった。
今思えば事情を言ってもう一度作ってもらうか直接正式書類を送付してもらうべきなのだがそのあとき僕は何もできなかった。

紛失してしまったという過失にまでおどおどしてしまったといえるだろうか。
帰ってきておふくろにそのことを告げるとお袋は「うん・・わかった・・もういいよ」って言ってくれたけど今思うに寂しそうに言っていたように思う。

あれは僕が実際は休んでいたので書類はもとよりなかったのではないかと言う推察をしていても不思議でない。
おやじも何も言わなかったけど僕はそのころどのようにこの事態を対処していいかわからなかったんだ。

少年時代・・・それは夢一杯の時代なんかではないのかもしれない。
何もかもがはじめての経験で混沌としていて、苦しく、わけわからないんだ。
でもそれではダメだってことはわかってきているので殻をかぶり周囲をごまかし生きていくはめになる。
なぜか気がついたら長い長い道のりを走らされている。
苦しい、苦しい、立ち止まりたい、でもそれを言い出せない、なんで?なんで?走らなければいけないの?


等身大の自分・・・って言葉は素敵な言葉なんだけどそのことは一杯の経験をしてはじめてわかってくること。
決して先に言葉で理解してはいけないんだ。そうでないと自分で自分をごまかしていることに気がつかないままで育っていくから。

失敗をしたらいいんだ、挫折を経験したら良いんだ、そのなかから本当の自分を見つけ新しい自分を創っていくのだ。

そして母親はそのような子供たちを抱きしめてやって欲しい。父親はそのようなこどもたちを、笑顔でうなづいてやって欲しい。

ただそれだけの経験の積み重ねで子供たちは等身大に生きていくことを理解していくのだ、きっと。

疲れたら、ちょっと休みなさい。

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2007.05.06

電脳論4 事件は現場で起きている

僕達が人生を楽しく生きていたいと思うことは当然なんだ。
楽しくないって思うことも良く起こる。

どんなに恵まれていても楽しくないと思ってしまえばそれまでなんだよね。
必死に生きてきた・・・って人生は楽しいか?って僕が聞かれれば、僕は楽しかったよ!って答える。

長い距離を走るってことは苦しいことなんだ。
走り続けるか、あるいてしまうか、停まるか。

そのことが苦しいのか、楽しいのか・・・それはそれぞれの心が決めることなんだ。

楽しいよ!って言っても、その言葉だけでそれはわかり合える事ではない。

経験したことがない人にとっては「絶対楽しくなんてあるはずがない」って思っても不思議ではない。

高校1年のころ毎日毎日部活で淀川堤防を20Kほど走った。戻ってきてうさぎ跳び、それはそれは苦しいトレーニングだった。
2年生の先輩が鬼のように思えたねえ。
そのときは確かに楽しくはなかったんだよねえ。

秋の体育祭、僕はハーフマラソンに出た、部活と同じ淀川堤防を箸って戻ってくるコースだ。
はじめは何も考えないで義務で走っていた、3年生まで全員で60人ぐらい走るわけだから10位までの入賞に入れるわけがないし。
半ば義務のように・・・・折り返しところにその堤防に小学生ぐらいの少年達がいた。僕がその前を走りすぎるとき、少年達の声が聞こえた。

「16位いいいい」  

えっ?そうなの?ならもう少しがんばれば入賞できるかも・・・俄然僕は力がみなぎりがんばりだした。
10位で校門に入りトラックを回っているときPTA席では初めて父母と、姉が来ていて、狂喜乱舞の声援が
聞こえてきた。

がむしゃらに走って一人抜いて9位入賞。

そんな経験が走ることの楽しさを教えてくれたんだろうなあ。

次男が2年生ごろ地元の駅伝大会に友達と出たことがある。
おっとりとしてる彼は、ちんたらちんたら笑いながら走っていた。
最後の周回のとき見かねた僕は「死に物狂いで走れええ!」って叫んでいた。

俄然かれはものすごい形相で走り出した、えーーっ僕はびっくりしましたねえ、そこでかれは5人ぐらいごぼう抜きで次のソウシャにたすきを渡した。

そこで走る楽しさを感じたのか、次の年彼らのチームは見事優勝を果たしたのだ。

単に走るということにおいてこのような現場に大切なことがあった、それは堤防で走る選手の順番を数えていた少年が居たということ、僕が思わず走れーーって叫んだこと。

人生はそんなことの積み重ねなんだ。
難しい理論やシステムではない、現場にいつもある人は人と過ごすということだ。

走らない理由ならいくらでもある。
でもそのとき、あの堤防にいた少年に僕は出会わなかっただろう。
そしたら次男が走っているとき、「死に物狂いで走れーーっ」って叫んでいなかっただろう。
逆に、「ひややかに」見ていただけかもしれない。

人が人と過ごす現場はそのような僕達が必死で生きている現場なんだ。
それだけで大丈夫!。現場を大切にすればいい。

今、保育園と24時間保育の可能性について打ち合わせを続けている。
3食おやつを届けるということが実現できねばいけない。

もともと、大きな業者がやっていたものだが採算を考えるあまり、粗末な給食になっていてその現実を見た僕はこの状態ですごす園児と悲しそうな保育士たちを思うと何とかしなくてはいけないなあって思って当社で引き受けることにした。

材料費分だけをいただくという採算を無視したわけ、まあ喜んでは貰っている(笑)
現場はこのようなことの積み重ねだ。

そのような現場で育った子供たちが小学生になり、通学途中僕を見つけて「あっふぉるてさんっ!」って笑ってくれるって・・人生は楽しいねえ!


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2007.05.05

電脳論3 学問と技術

現代教育の現場にはいろいろな問題が噴出している。
それは15年ほど前PTAの役員をしたときに目の当たりにした。
大きな項目としては、教師の資質と父性の欠落だ。

問題発言だけど、一般論としてだからね(笑)

そしてその後そのことをなぞるように、少年少女の不思議な事件が続発するようになる。

そしてそれは今医療の現場でも起こっているのだ。
20年その現場近くで仕事をしていると色々聞こえてきたり、気がつくことがある。

そのようなことは僕のカテゴリー「捏造の論理」でも書いてきたことだが、権威の影響が大きいと思っている。

問題発言なのでこのぐらいで想像をめぐらしてください。
権威の意向にそぐわない学会発表はその場が与えられないわけで、新しい画期的な研究は海外で発信するというような現象まで起こっている。・・・らしい(笑)>おもねく

学問は文化を創造し、時代を作っていくのだが、その積み重ねが結果をつくっているのだったらもっと暖かかくて素敵な人生をみんなが送れても不思議でない。

なにが違ってきているんでしょうか・・・・・
僕は現場不在だと思っています。
その担当者の目が現場に向いていなくて権威に向いている・・・・そんな感じがしている。

今一度現場に目を向け、学問として確立するのではなく、技術として切磋琢磨していく人たちが多く出て欲しい。

教育では一度社会人としての経験をその過程に組み込む動きが出ている。
心理学においては、学問としてよりも、カウンセリングとしての現場技術を抜きにしてはこの混迷を救うことは出来ないと思っている。

医療としては思うように機能していないように感じている、もちろん現場主義の医療機関もあるのだがなかなか結果が出ない部分で現場にテキストが不可欠になっているということは何か違うように思う。

施策として乳児期からの民間のカウンセラー機関や教育機関の増強が急務だと思っている。
乳児期から幼稚園までを親も含めてゆったりと過ごせるようにしなくてはこの時代を救うことは出来ないとまで思っている。

そこに難しい学問などは必要ではない、子供と親を含めて人と過ごす・・・それだけでいいんだ。
だってそのように僕たちはみんな育ってきたんだもの・・いつの時代もどの国もそれだけで十分幸せな人生を過ごせるはずだったんだ。いつのまにか複雑な要求を僕たちは求めてきてしまったのかもしれない。
たとえば夢と個性・・・・・はははは。

山奥で木を切り育ったおやじはそれほど難しいことなど必要なかった。海辺で毎日泉まで水を運んで育ったおふくろにそれほど難しいことなどひつようではなかった。

子供が育つということを難しくすることはないんだ。それは現場で人と過ごす・・・・だめかなあ(笑)


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電脳論2 CPUは今日も暴走する

このシリーズは僕の考える「心」についての僕の「極論」を書き綴っているものだ。
色々な個別の事情に分け入って書く部分と大筋を書いていく部分が交錯するのだがそのことを理解しておいて欲しい。

個別の事情についてはなかなか言葉で書くわけに行かないことが多いので、もしそのことで意見交換が必要であればメールなり、飲み会などで語っていきたい。ただし僕はお酒に強くないからね(笑)

えーとちょっと元に戻して、「心」について書いてはいるがそれは生まれて心が形成していく過程を考察しているもので、「病気」克服のために書いているものではないので取り扱い注意です。

そのような場合には逆効果になる言葉を使うことが多くなると思っている。

心と体を対比させることが多いが、長く走り続けて疲れて倒れるtこことがある。
怪我をしたり熱の病気になったりすることがある。

その場合対応方法がとられる。
薬や手術や安静にすることなどである。

そして又走りだすのだ。
その場合同じようにまた倒れてしまうことがしばしば起こる。

倒れないような体に鍛えることが必要だし、そのために何が必要かを求めていくのだ。

そのための新しい考え方として、最近では、養老 孟司 や茂木健一郎 が心の仕組みを解明してくれている。
それは心を修復するためではなく、鍛えるために必要なことなのだと僕は思っている。

それを学問として読んで感動することは簡単なのだがそれを実行することは至難の技。
でもそれを読んだだけで強くなったと思い込んでしまうことが多いのが実情。
言葉で理解して大人になって来たために破綻していく事例があまりにも多くて僕はいたたまれないのですよ。

そのことを僕はこのBLOGで一貫して書いてきた。
具体的に書くと追い込んでしまうことはわかっているのとそのことが本意ではないのででかけないのだけど。

そのような鍛えるという行為は10年20年というスパンで考える必要がある。

それは丁度生まれて大人になっていく時間と符合する。
破綻したと感じたとき、「旅に出る」って感じの生まれ変わりの決意が必要。
それが10年20年だ。

それは個別にはさまざまなことがあるのだからそれぞれの旅をすればいい。
揺るぎのないものを求めて生きていくしかないけど誰にもできることではないのだけどそのために生きることってなにものにも優先するような気がする。

すべての枝葉を取り去って残るものは「人のせいにしないでたんたんと笑っておれる心」かなあ(笑)(笑)(笑)

あーーCPUって信じられないものすごい性能があるんだけど、冷やさないとダメなんです。
フアンをその頭につけていつも冷やしてるんだけど、そのフアンが実はちゃっちいんで古くなるとフアンが止まったまま使っていてCPUが暴走するってよく起こります。

フアンを使わないで自然冷却だけでいいようになっているCPUもあるんだけど、性能はそこそこだけどいつも変わらぬ笑顔を見せてくれて信頼できる・・・・・はははは。

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2007.03.24

電脳論1 タミフルとデジャブ

タミフルによる少年異常行動が問題視されてきた。
タミフルが異常行動をさせるのか?僕が考える心はプログラム論から分析してみたい。
一連の、左利き、人間の考察、捏造の論理に続く心と体のカテゴリーの実践編といえる。


まずデジャブについて分析する。
だれでもデジャブは経験していると思う。

今起こっている現象を過去にも経験していたと感じる現象だ。
そしてそれは経験しているはずがないはずだったりその瞬間以後に起こる現象を予測してしまうのだ。

たとえば、友人と偶然町で出会う、向こうからその友人が自分に向かって泣きながら駆け寄ってくる。
そのときあーなんかこのシーン「以前経験」*(1)したことがあるなあって思う。

そして確か「この後」*(2)友人は僕にしがみつくのだ・・そしてそのように友人がしがみつく・・・

このばあい(1)と(2)があるからデジャブである。
つまり以前「経験している」と感じること、そして以後起こった現象を「予測した」と思うこと。

このような現象はコンピューターに置き換えてみるとわかってくる。

まず(1)以前経験していたと思うことはプログラムとしては記憶領域大脳皮質に記憶されているさまざまな映像、現象を
LISTとして検索していると考えられる。


その場合その接続回路の電気信号としては検索をして合致した場合過去LIST=「YES]の信号が帰ってくる。
具体的には1・・・つまり5ボルトのパルスが一回返ってくる。

(2)の未来予測については本当は予測していないのだが、「予測した」と意識が起こるところにパルスが紛れ込んだので現象が起こってからであっても「それは予測した」と思ってしまうだけ。だからデジャブはあまり長い時間に渡ることはない。

これはデジャブに限らずよくある「思い込み」と同じ現象と思われる。


非常に単純である。つまり何かの異常で5ボルトのパルスが回路に発生してしまうととLISTの存在とは無関係に
そのLISTに存在すると読み取ってしまうことになる。

そんな異常が起こらないように大切なプログラムの場合は経験的にさまざまなルーチンでその対策をして安全を期すわけだ。

たとえば「過去にあったかどうかを確認する回路」に異常なパルスが入らないように暗号により正しい信号かどうかを判定するルーチンをつくるとか、電磁的にシールドをするとか周囲で携帯電話を使わないようにするとかのことは一般に行われている。

タミフルの場合そのシールドが麻痺されるのではないか、たとえばウイルスが入ってきたぞ!と警告のため熱を発生するように指示する回路を麻痺させその信号を先に行かせない、その信号やそのとき発生している生活のさまざまな信号はその行き先に混乱を起こしている。

そのとき、記憶領域にある「飛び降り」という過去に起こった事件を知ったとき感受性の強い年台のため強く記憶されていた「行動」神経にそのパルスが紛れ込んでしまう。

そのため通常の意識の枠外で、制御回路を無視しただ行動命令だけを伝達してしまう。

デジャブもそのように神経が増殖、と収縮を激しく起こっている若いときの現象だ。

僕たちはいろいろな思い込みや不思議な現象にであってもだんだんとそんなことは起こるはずがないとかそう思わないほうが良いとか、社会的な訓練を経て大人になっていく。


その防御性能が不十分なときデジャブは起こり、少年期、タミフルは異常行動に作用する。

3/24 20:30 文字変換ミスをたくさん修正(泣)

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2007.02.26

捏造の論理12 心の内なる神

ソフィアさんのBLOGである本を紹介していて「心の内なる神」を説いている。

僕がずっとこの一連のカテゴリーで書いてきたことの本質を突いているように思う。

一般に「神」というと人の力の及ばぬ宇宙空間にいてわれわれを導いているような感覚で捉えられているが僕はそうは思っていない。

僕たちが色々な経験を通じて神の存在を信じたり、愛を受け取ったりするその心が一人一人の内に形成していったものなんだと思っている。信じなければその人には神は存在しないのだから。

僕たちは思うように行かないときそれを何か神のような存在のせいにし安堵する。
でもそれはそのように発言し続ける言葉によって捏造されて来たものだ。

すべては自分の心の中に存在する。色即是空だよね。

苦しいことを受け入れるか、悔やみ悲しむかそれぞれの手の内にあり自分が作ったことなんだ、空即是色だよね。


話は変わるが最近テレビで新しい霊能者が出てきてバラエティ番組で話題になっている。
親子2代の霊脳者生活ですっかりその力を蓄えなかなか洞察力がありすばらしい。
でもその方でも、参加者が示した、写真に写った影を、霊だと言う。
僕にはただのカメラにぶら下げた飾り紐にしか見えないのだけど。

捏造されたものに惑わされないようにしたい。
己の心の中に神を作れ。

親や子供を焼くのはよそうよ。お願いだから。

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2007.02.03

捏造の論理11 人は機械か

厚生労働大臣の発言が波紋を広げている・・・・
大臣の発言というものは国家を代表してしまうものであるから慎重でなければいけないけど発言する場所によっていい間違いや、言ってはいけないことを口走ってしまうことは誰にでも起こることだ。

僕個人としては女性の尊厳を傷つけたとか人として失格であるとかの発言で口汚く非難する発言のほうがもっともっと不快である。
コメンテーターはそろって同じような発言になっているのだが、それを見聞きして、一般の人たちも同じように人の尊厳を声高に唱えるのだ。

このことは僕が「左利きの論理」からはじまって「人間の考察」「捏造の論理」へと続くカテゴリーで一貫して言っている人としての心のあり方を表している現象だと思っている。

僕達はだれも捏造のわなから逃れることはできない。
「正論」を聞けば「ファイト」と「フライト」に僕達は心が動かされてしまう。

もっと日常のあり方から言えばどちらに「組したら」仲間におれるかという判断をいつも無意識に繰り返している。
そんな人としてのありかたが「人の尊厳」なのだ。
絶対の真理を知る人などありえない、でもテレビに出る人たちは、それで名を上げ、金を得るために「正論」をぶつのだ。

そんなことのために右往左往することほどつまらないことはない。

あえてまた言う・・心は体、心はプログラム、脳は体、脳はコンピューター。・・つまり「人は機械」・・わーーーー

人は長く「人の尊厳」を唱え、文化を積み重ねてきたはずだ、でも世界はいまだに殺戮と環境破壊をやめることはない。
その現場は身近な人にでさえ口汚くののしり冷笑し、重たいからとばらばらに刻んで運んでいるではないか。
そんな心はその「捏造のわな」にはまって僕達の心に今も存在するのだ。
自分にはない・・・といってもだめあるんだから(笑)

心を鍛えるってことはプログラムするということだ、それは「捏造」と同じ行動でよい。
必要だと思えることにどっぷりつかって信じて受け入れていけばいい、それが「夢」であり「旅」なのだ。

HYがすばらしいと感じる心が欲しければ、繰り返し聞けばいい・・僕は今一日繰り返し聞いていても心地よい。

今も厨房の奥でこんなことを書きながらイヤホンからは♪この世界が闇に染まる前にこの思いを・この思いが君に届きますように、願いが叶いますように・・と流れていて、明日は失意のどん底にいるかもしれない厳しい闘いの中で精一杯やったのでその結果をわくわくとして待っている。

いやあそういう意味で、何があろうと人生は素敵だといえる心を鍛えたいものですね。

♪あーーーーーだからお願いい、僕のそばに いーて くれないか君が好きだから、この思いがあ君に届くように願いが叶いますように・・・・・♪

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2007.01.22

捏造の論理10 その先を越えていけ

大人の世界は捏造に満ちている・・・・・
それは疑いようがない・・・・・・
ごめんよ少年少女たち・・・・・・・・・・・・・・・・・

人間の心は弱いものなんだよね。
正しいことは何なのかすべての人はそんなこと