カテゴリー「■パソコン伝説」の11件の記事

2006.10.06

パソコン伝説12  ~2000年問題の現場にて~

WINDOWS98が出荷され、その対策版SE(セカンドエディション)が安定するに従いパソコンは一気に個人にも広まって行った。
インターネットが文字どうりくもの巣のように張り巡らされ、データ通信の主役になり、その通信回線の技術革新は想像を絶する進化を遂げていった。

昔の技術はどんどん切り捨てられていく・・・そんななか僕達はLOTUS1-2-3を駆使する資源をたくさん抱えることとなっていてその未来にいつまでも固執していたといえる。
顧客へのさまざまな業務ソフトを開発し納めていくのだがそれはいつもLOTUSだった。

そのうち顧客が「なぜEXCELじゃあないの?」と疑問を投げかけてくるようになってくる。

「それは箱が黄色いからです!」と意味不明のギャグを飛ばす・・・・
そのころ2000年問題(CASE 2K)が表に出てくる。

コンピューターができたころメモリー容量は大変小さくたとえば1000文字までで一つの終結したルーチンを書かねばいけないわけで、日付を1955年を55と書いていたわけだ、当時通常の文書しかなかった時代は普通のことでコンピューターができても当然のごとくそのように使われていった。
開発技術者のあいだではわかっていたことだが、2000年は当然「00」と書く。
すると機械はそれを1900年と判断してしまう。

それはさまざまな部分で異常を起こし、機械が停止することとなる。
思わぬ展開でノストラダムスの予言が現実味を帯びてくる。

企業は古いシステムを使っていた時代から一気にパソコンでのシステムに乗せかえるチャンスが到来する。
当社にも保守管理している企業から、会計システムの更新に1000万円の見積もりが来てるがおたくではいくらでできる?との見積もり依頼が来る。

パソコンでバックアップの機械を入れWINDWOSの会計ソフトで記帳し、LOTUS1-2-3でデータ分析するシステムを膨らまして100万円で見積もりする。

10分の1だ、そしてその中身は5万円の会計ソフトで動いている、担当者はそれをしって会計ソフトだけくれといってくる。

その中級規模の会社はいまでもその会計ソフトで経営を続けている。

2000年が近づいてくるに従い、フォーラムに質問があり、その回答のためDOS版1-2-3のデータベースエンジンを解析していたところとんでもないことを発見した。
通常の2K問題よりももっと深刻なデータそのものの喪失というバグを発見する。

これはすでに出荷している、内の初期のがんばる君2台にもその問題があり2000年までに修正しておかねばいけないことがわかった。

しかしそのシステムは基本部分にかかわっていて大幅な改定となる、会社としてもさまざまな問題が発生していて手が回らない。。

2000年目前その2台を使っている店が相次いで廃業の奇跡が起こった。

まあ当社で使っている分は修正する時間も取れないまま2000年以降、データベースが壊れたままで、WINDOWS版「がんばる君2000」ができるまでデータは取れなかった。
 
 
Ganbarukun2000
●がんばる君2000● 
 
 
 
 

2000年が明けてシステム事業部のプログラマーは次々と脱落、あるものは病み、あるものは出奔・・
時代が大きく変わっていった。

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2006.09.29

パソコン伝説11  ~挑戦者達2~

前回は90年代の盛者必衰の流れを見てきたが、必ずしも必衰といえるかどうかの結論が見えていないものも当然ある。

マイクロソフトは倒れるのか?・・・
ITを離れれば、日本では大きな流れがあった。
外食産業の雄であり僕が藤田田に憧れチャレンジすることの勇気をくれたマクドナルドは30年後の契約を更改することなく藤田田は半ば追われるように表舞台から消え、先年あっけなくこの世をさった。
量販店の雄であり、小売業として日本一の地位をきづいていたダイエーは今再生機構の手の中にあり、仲内氏一族は完全に表舞台から追われた。
近年のメルチメデア戦争でも一夜にしてその牙城が崩壊することを何度も目撃した。

マイクロソフトは倒れるのか?・・・・

90年代初めにフィンランドの学生リーナスが従来のUNIXの流れを汲む独立したOS リナックスを作り上げる。
当初は学生としての勉強のつもりで作りかけていたものがその発想の斬新さから、実用にもいけるという感触を得、これをオープンソースとして公開する。つまりフリーソフトである。
これを世界中のボランティアがネットを介して寄ってたかって改良していく。

マイクロソフトのWINDOWSはブラックボックスとして非公開だがリナックスはおもちゃで言えばレゴブロックのようなつくりになっていて、必要な部分だけをパソコンに入れるだけで動くので非常に安定していて、非力なマシンでもさくさく動くことから、いまやUNIXに変わり企業サーバーの標準の地位を得てきていて、WINDOWSサーバーは苦戦を強いられている。

先の記事でも書いたようにマイクロソフトは数々の敵を破って世界一に君臨しているわけだが、今もセキュリティーのホールを攻撃されていて、毎日その対策情報が発信され続けている。

当社でも2000年当時リナックスによるサーバーを構築し、光回線を施設して、サーバーの切り売り事業を画策していた。
だが時代の進化はその商品が完成するまでにもっと格安の通信回線が売られ、貸しサーバーの価格破壊が起こり、中にはプロバイダ料無料のような業者も現れて全く競争にならない事態となって開発を中止せざるを得なくなり、DEL1600サーバー機は無用の長物と化して先ごろ破棄した。

価格破壊が進んでくると、一台一台に数万円のOSが必要なWINDOWSに比べて、無料で、非力な機械で安定していて、セキュリティー面でも安全なリナックスが100台1000台と導入する企業にとってはこの上ないOSであるといえる。

サイバー(企業、公的機関のホームページ)攻撃がそのOSのセキュリティーホールの弱点を攻めるものだとすると、危うしWINDOWS・・・一夜にして崩壊するとしたらこの部分かもしれないと世界中の技術者が戦い続けている。
敵味方に別れて・・・・・・・。

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2006.09.28

パソコン伝説10  ~挑戦者達~

90年代はさまざまな伝説が生まれた。

日本のパソコンをリードしていたNEC98シリーズは国民機と呼ばれ90%とも言われる占有率をもって君臨していた。

PC9801F以降ほぼすべての機種で互換性を保持し続けていた戦略が成功していたといえる。
そしてその戦略が新しい時代に対応することを阻害していったのだ。

国産OSを作ろうという機運も盛り上がりTRON(トロン)がその地位を獲得する寸前まで行ったが米国政府からの強い圧力で開発者は失意のなかで表舞台から去る・・しかしその合理性と、汎用性が見直され、今は携帯機器に搭載され、その分野で世界標準を狙うまでに復活してきている。

その中で日本語変換ワープロソフトとして不動の地位を築いていたのがジャストシステムの一太郎だ。
マイクロソフト社はWINDOWS95に搭載する日本語変換ソフトをジャストシステムに打診してくる。
ある意味大きな飛躍のチャンスと思えるのだが、ジャストシステムはそれを断る。

官公庁を一太郎が標準として押さえていた自信と、独自の国産ウインドウズといえるものを開発していた独創性の強い浮川社長はビルゲイツの軍門に下ることをよしとしなかったと僕は思う。
しかしWINDOWSへの搭載バージョンでは次々と不具合を起こし新聞社会面でも取り上げられる事態となりLOTUS社と同じような運命をたどることになる。
しかしワープロソフトとしての評価は高く官公庁での高齢者の多い職場ではいまだに保持しているところもある。

インターネット巡回ソフト(ブラウザ)でも同じような大転換があった。
インターネットが広まっていく初期、ブラウザとしてネットスケープナビゲーターを若者が作り上げる。
その便利さとインターネットが急激に広まっていく中で世界標準として独占していく。
当時は有償で売られていたのだ。

しかしマイクロソフトはインターネットエクスプローラーを無償で配布を始め、97年ぐらいからはWINDOWSに組み込んでしまう。

独禁法で裁判までされたがネットスケープはその地位を追われいまやほぼ消えた。
形を変え、対抗策として技術をOPEN化しボランティアが開発を続けポータルサイト等で技術資産が受け継がれ現在はモジラー等のブラウザで数%の占有を示したいるに過ぎない。


このような世界の流れの中でビルゲイツは勝ち続け、世界一になったのだ。
それは幾多の怨念を生み、今も世界中からそのセキュリティーの攻撃を受け続けていて、技術者の間では激しい戦いが今も繰り広げられている。

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2006.09.20

パソコン伝説8  ~インターネットとWINDOWS登場~

1-2-3DOSによるPOSレジがんばる君が数々の発見を繰り返しながら、順調に出荷されていった。
1995年、マイクロソフトはそれまでのWINDOWS3.1に変わるOS、WINDOWS95を出荷する。
それによりほぼマルチタスク(同時に複数のソフトを走らせる)を実現させた。

それは先年インターネットというパケット式データ転送の手法を網の目のように張り巡らせた回線を利用してパケットごとに分けたデータそれぞれに送信先のアドレスと順番の札を付けてとりあえずネットの中へぶっちゃける。
そしてそれぞれ好きな回線を流れて目的地のアドレスに到着してから番号順に並べて表示するというTCP/IPというインターネットプロトコルが開発され一気に世界に広まっていった。


インターネットもWINDOWSも始まりの時はまだ、PCの性能が遅れていたので、画面の動きが遅く、実用的でないという観測が支配していた。

特にDOS版のソフトメーカーにとって乗せかえる技術開発には膨大な費用と、技術力が必要なこともあり、技術者の間でDOS版から撤退する必要はない、まだまだDOSの時代は少なくとも5年から10年は続くだろうという流れとなっていった。

ときあたかも日本標準のNEC9801機の牙城も揺るぎ始めていた。
DOSVマシンの本格的な日本上陸である。
ROMによる日本語表示をV-TEXTというソフトプログラムで日本語表示を実現する技術が完成し、IBMのオープンアーキテクチャー戦略で2バイト文字パソコンはこの方法で行きましょうという連合国を作っていったことでDOSV機陣営は93年ごろから一気に日本侵攻を始めていた。
CPUやメモリーの性能アップで旧来の日本語ROM方式は逆にコストアップだけの手法になってしまったのだ。
日本のメーカーは対抗上途上国の安い部品を集めた価格破壊の準DOSV機を発売していくが付け焼刃の手法は部品の劣悪さのため次から次と壊れていくメーカーも現れる。
日本中がすべての流れが革命を起こしていく、業界の中心にいた人たちは毎日が手の震えるようなときをすごしていた。

それでも95搭載パソコンはどんどん売れ出していた、しかしDOSに比べて10000倍ともいえるプログラムで出来上がっているWINDOWSはいろいろな不具合が露呈してどんどん壊れていった。
たとえて言えば、DOS版は一軒の建物を作りその中でいろいろな作業をする程度のものであったものを、10000軒の建物を作りそれぞれが専門の作業をする。
そしてそれぞれの建物をプログラマーが分担して作っていく、それを道路や線路をつないで相互に動くようにしていくわけだ。

設計図ではうまく動くはずだが実際に配置してみると、建物の入り口が反対側になっていたり、隣の建屋と境界線がだぶって干渉する。まあそんな感じでうまく動かない。マイクロソフトの開発プログラマーは家庭を破壊しながらその出荷に向けて不眠不休の闘いを続けていた。(闘うプログラマー ビル・ゲイツの野望を担った男達 (全2冊) ... に詳しい)

それでもなお発売してみるとさまざまな問題が発生していった。
DOS信奉者達はそれを冷ややかな目で見ていたことになる。
ここで二つの流れができる。

あくまでもDOS版ソフトを擁護し新しい流れを軽んずる。
それと新しい時代が来ると感じいち早く乗り換える流れ。

LOTUS社は前者を選んだ・・選んだというよりWINDOWSがマイクロソフト製であるということと、それにあわせて表計算ソフトEXCELが売り出されたことと無縁ではない。

LOTUS社はDOS版1-2-3で世界標準を獲得していてそれは絶対ゆるぎないものと技術者の頑固さがいきわたっていたようである。
そしてまたLOTUS社は新しい考え方のオフィスツール「ノーツ」を開発しそれが時代を切り開くとその開発チーム資源をノーツへ集中していく。

それでも一応ウインドウズ版1-2-3といえる1・2・3 R5Jを発売した。
しかしこれはDOS版のインターフエースを流用して本格的なものではなかった。
EXCELの機能はこれからの入門者には魅力的な受け狙いの機能がいろいろ搭載されていた。

そんな背景があったが、町のパソコンショップや量販店のパソコン売り場がWINDOWS版で埋め尽くされていった。
しかし、次から次と不具合で停止していく・・WINDOWS不信が広がり始める。

WINDOWS95危うし!

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2006.09.16

パソコン伝説7  ~DOS版がんばる君~

DOS版のがんばる君は社内での運用は順調に行った。
店舗では、仕入れ伝票、金銭管理、タイムカード勤怠管理、POSレジ、LANにより厨房へのデータ転送表示、本社へのデータ転送。

従来の給料計算は1日仕事であったが、30分で明細打ち出しができた。
このシステムが従来の専用機の10分の1以下で販売できる。
データは1-2-3表計算に展開できるので、客先で自由に加工できる。
未来のパソコンが企業商店の事務機器となる予感をさせるものであった。

売出し決定し客先の絞込みが始まったが、営業担当の「ムスケ」はどんどん契約を取ってくる。
あわてて出荷バージョンをまとめるがこれが手強かった。
社内なら我慢できる部分も社外提供となるとそのインターフェースは複雑となっていく。
その間にも技術革新はすさまじい勢いで動き出していた。
パソコンが価格破壊を起こそうとしていた。

DOSV陣営が日本上陸してくるという観測が流れ、国産パソコンがあわててその仕様を変更しだした。
ネットワーク技術も革命を起こしていく。
すべてのシステムが月単位でバージョンを上げていく。
技術革新や世界標準へ向けて激しい戦いが起こっていった。

がんばる君も出荷版は次々とバージョンをあげていくこととなっていく。
ついにすべてを1-2-3で稼動する究極のPOSシステムが出荷を始める。

売り込みのための評価用キーボード
Key1
一つ一つのキー部品を組み込み、Z80CPUによるアセンブラーでのキーボードだ。
手作り木製の高級感はどう?(笑)

 
 
 
 
 


出荷製品版キーボード、表示灯、Reji1

 
 
 

がんばる君6号
Reji2

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2006.09.15

パソコン伝説6  ~WINDOWS前夜~

時代は大きく変わろうとしていた。
その中でも通信技術の進化は世界を変えてしまったといえる。
インターネット前夜・・それはパソコン通信と言われる、BBSの時代であった。

データの搬送技術としては原理的にはFAX送受信技術と同じである。
紙のデータがモニター画面に置き換えられているだけである。
ただ大きく違うことはパソコンデータの場合一箇所でもエラーや雑音が混ざると致命的なことになるということ。
FAXの場合は、画面に黒い点が混ざってもほとんど問題がないが、コンピューターの場合は一箇所だけでも雑音が混ざると、1000円が1兆円と表記されるような間違い起こったり、全く動かなかったり、場合によってはシステムを破壊することもある。


そのためそのエラー対策としていろいろな方法が提案された。
当初は送るデータの最初と最後にマークを入れ照合し、送信者にもう一度そのマークだけを送り返し残しておいたマークとも照合しあっていればOKのマークを最後に送信し完了。万一間違っておればすべてもう一度やり直し。

そのうちたとえば256文字づつ分割してその前後にビットずれ検査の文字をいれその「パケット」ごとにエラーを検出しエラーがあればその「パケット」(バケツ)だけを再送信する。この方法が考案され飛躍的に速度が改善されていった。この方法たちは現場では「垂れ流し」といわれ、すべてのデータをその順序に途切れなく送信する必要があった。

そのため一つの回線はそのデータが送信終了するまで完全に占有され他の利用者は使えなくなる。
送信速度も極度に遅くちょっとしたデータを送信するのに30分1時間とかかっていたのだ。

そのような時代、草の根ネットが拡大していくに従い、大手企業が掲示板運営に参入する。
NEC系のPCーVAN(現BIGLOBE)とFUJITSU系のNIFTYーSERVE(現@NIFTY)が国内を2分する。
それは企業が情報発信する場として運営したり、データ提供したりすることで専門的な分野のフォーラムとしての役目をすることとなり、ボランティアが多数参加することで進化し、数々の伝説が生まれる。
各分野で技術的な提案がなされIT革命をリードしていくことになっていった。

やがてNIFTYがその中心となり、フォーラム数は700を超え、巨大な会員組織に膨れ上がっていき、未来の社会の変革がそこから生まれようとしていた。

僕がそこに参加したのは93年FLOTUSというLOTUS社が技術提供するフォーラムであった。
システム開発には最新の技術の収集が必要であったのと当社の開発レベルがどの辺にあるかを知りたいと思ったからである。

そこの管理責任者K氏はやはり1-2-3中心のシステム開発会社をやっていてOFF会で過去2回の交錯があったことを知る、以来現在まで交流が続いている。

フォーラムでの活動は1-2-3が無限の可能性を持った奇跡のソフトであることを発見することになり、「究極」シリーズのフリーソフトは現在もインターネットで公開されている。

そこでであった仲間はたくさんあって、開発した技術で社長賞を取ったり、先進のプログラマーとなったり各分野で活躍していくことになっていった。

僕は1-2-3の先頭を走っていると思うようになっていった。それは未来の日本制覇を意味している・・
その1-2-3を使った画期的な店舗管理POSレジシステムが完成していった。

社外への出荷が始まる。
さあ、待ってろビル!はははは。

そのころビルゲイツはMACへの表計算ソフトを提供していく中で技術を覗きWINDOWSの構想を膨らませていた。
変革が迫っていた。

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2006.09.11

パソコン伝説5  ~日本制覇計画~

NECの98シリーズの成功はマイクロソフトのMSDOSを採用し日本語ROMを搭載、画像処理回路を独立して稼動させたことにあるように思う。

それによりCPUの性能が低かった時代に90%以上の占有を成し遂げた要因だ。
IBMのDOSV連合軍は、半角文字文化圏であったためCPUの性能が進化するまで日本に入ってくることは出来なかった。

アプリケーションソフトを作る現場でも劇的な変化が起きていた。
プログラムはプログラマーがそのすべてを造る・・当然であるが、パソコンのようにソフトがたくさん切り替えて動かせるようになってくるとそのつど同じようなルーチンを造ることは無駄なこと。

自然と構造化という考えが生まれてくる。
たとえば都市を造るとき、役所、図書館、地下鉄、空港などのように基本的なもので同じ者をどこでも使えるものを用意してしまうという考え方といえる。

それにより、新しく作るプログラマーはその部分は作る必要はない。
その行き着く先が「オブジェクト指向」となって、ウィンドウズが生まれたといえる。

「役所に行ってA社の謄本を取ってくる」という命令だけで済むプログラムを「最寄の駅へ歩いていって行き先の値段を調べコインを入れて買い、お釣りがあれば必ず取り、入り口の改札から入り、のぼりの東梅田行きにのり・・・・」というように膨大なプログラムを昔は書いていたことになる。

表計算ソフトはそのような構造化の単純なプログラムといえる。
広大な一枚の碁盤の目のような表にすべての作業を配置して考えることが出来るということ。
そのため、誰でもがそれを使い、パソコンの恩恵をよくすることが出来たのだ。

1990年代前半まではDOSの時代。
当社ではその性能をフルに使い、社内管理POSレジシステムを構築した。
通常専門システムで1000万円はするシステムを100万円以内で作ることが出来る画期的なものだ。

徐々にそのシステムが稼動する店が増えていくに従いこれを売ろうという計画が上がる。
日本制覇5カ年計画の発進だ。

待ってろビルゲイツ!はははは。

そんな途方もない冗談を言ってはいたが半ば本気であった。まだまだ誰にでもマイクロソフトは当時射程距離にあったといえる。WINDOWSが現れるまでは・・・・・・・・

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2006.09.10

パソコン伝説4 ~1-2-3の時代~

日本のパソコン事情の中で特徴的なものはNECの9801シリーズの成功がある。
日本の各メーカーもさまざまな考えのパソコンを投入してきた。

そしてその機能を使うためにはソフトが不可欠である。
当時のソフト開発の現場ではパソコンに入れてうまく動かすためにさまざまな工夫を凝らしていた。
そして現在のようなマルチタスク(同時にいろいろなソフトを動かす)ではなく、一つ一つのソフトだけを切り替えて使っていた時代であり、そのソフトは読み取り印刷保存とすべての機能を開発しなければいけなかった。
そのための開発費用は莫大となって当然売れる見込みのある機種にしか開発力を向けることができなくなっていったといえる。

そのためNECの9801シリーズに搭載されるそのOSのマイクロソフトMSDOS、日本語変換ATOK(ワープロ一太郎)、表計算でLOTUS 1-2-3等が標準とみなされるようになり、そのMSDOSで機能するさまざまな周辺機器が2次、3次メーカーで開発されていった。

ここに2バイト文字国として日本独特のパソコン事情が出来上がっていった。
つまりIBMのDOSVパソコンは日本語が表示できないという欠点のため日本に入り込めないという鎖国状態となったといえる。

それまで、コンピューターに無縁であった中小企業零細企業商店もパソコンを導入することでバブルの時代に乗り遅れまいとすることとなり、高くても売れるわけで、1-2-3もマルチプランの2倍はする価格でありパソコン、プリンター、等一式で50万から80万円をかけても売れることとなっていったのだ。

表計算は1-2-3という情勢となり、1-2-3専門誌も発売され、そのマクロプログラム言語の高性能を使い、高度なシステムを構築することができ、日本中にその専門業者が覇を競うことになる。

当社でも深く分析していくに従い、その裏機能を発見していくことになり、1-2-3を利用してPOSレジシステムが作れるのではないかと開発が始まる。

全国の開発業者にアタックする・・・その中で1-2-3でシステムを作っている業者に電話する。

「あーーおたくで売っている1-2-3でのレジシステムソフトですがいくらなんでしょうか」
「まあ30万から100万ぐらいですねえ」

「えーーそんな高いんですかあ」
「はい、まあほんとはもっと安く作れるんですけど、安いと販売店で扱ってくれないんですよ」
「えーーそんなもんなんですかあ、はははは」

そのときはそれで終わってしまったのであるが、その数年後別のところで偶然出会うこととなる人であり、また先の「VERSA-LINK」の開発に携わった氏との2回目の交錯であった。

まあそんなことでそれなら自分でやってみようと思ったわけであった。

時代はコンピューターも世界のイデオロギーも、地球全体が激動の90年代を迎えていた。

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2006.09.09

パソコン伝説3  ~マルチプランの敗北~

店舗間データ通信ができるようになっていったわけだが、当時は通信速度300BPSから1200BPS。
つまり理論上1秒間に半角文字で300/8から1200/8文字、実際には前後に符号をつけたり、繰り返す確認をしたりするので、掲示板を読むのは1秒間に1行(漢字30文字)ぐらいだから文字が流れていくのを読みながら進んでいく程度であった。現在のインターネットではその1万倍から10万倍なのでほぼ瞬時である。

パケット通信というインターネットプロトコルがなかったので電話回線一本で一人使うと一杯になるので通信費用も従量制が普通であり1時間も利用すると、電話代と込みで1000円から2000円はかかる。
僕が始めたころは月5万円ぐらいかかったこともある。

そんな時代、表計算も当初は大変簡単なものであった。
もともとPC9801Fはフロッピーだけしか搭載していなくて、すべてのソフトはフロッピーいで供給されていて記録もすべてフロッピー、漢字入力はコードナンバーを入力すると言うような途方もない時代であって、表計算は半角の文字しか入らない。

カタカナノハンカクモジとABC123という具合。
そのうちマルチプランはバージョンアップが繰り返されジャストシステムのATOKの漢字変換が使えるようになり、
表計算の中で使える専用プログラム言語「マクロ」が搭載される。

基本的にはキーの操作を文字で書き、それをなぞってくれるということ。
このことで標準的な会社業務が自動化できることになり飛躍的に利用者が増えることになり、パソコンが普及するに従い、標準オフィスソフトの位置をマイクロソフトのマルチプランが獲得することになっていった。

当社でも全員がマルチプランを駆使でき、基本的な業務システムが構築されていった。
重量級の業務をこなすようになると、その速度が不足していることが欠点となっていき便利な機能を追加するごとに利用に耐えられなくなっていく。

そのときアメリカから新しい波がやってくる。
LOTUS社の1-2-3(ワンツースリー)だ。
これが1986年に日本上陸するときは新聞の社会面にも載るほどの出来事であった。

実感速度は数倍、瞬時にグラフも表示できる、機能満載のマクロプログラムが乗っていてあらゆる業務が自動化できる。
たちまち日本の標準ソフトになっていく。


マイクロソフトはその牙城を守るべく矢継ぎ早にバージョンアップを繰り返すがその速度は1-2-3についていけなかった。
最終的にマイクロソフトはDOS晩の「エクセル」という最終兵器をぶつけてくる。
これは現在のウインドウズ版のエクセルと同じような考え方の画期的なもので、各セルごとに色を変えたり表示用の関数を埋め込んだりできた。
しかしそれはハード面で重い負荷をかけることになり全く実用にならないほど遅いものとなり、ついに完全に1-2-3に駆逐されることになる。

世界中がDOS版1-2-3が使われ、売上世界一のアプリケーションソフトとして君臨する。
その底知れぬ実力を使って業務システムを開発販売する「VER業者」というジャンルが現れ、第一次ITブームといえるものが現出する。

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2006.09.08

パソコン伝説2  ~データ転送プロトコル~

飲食店の業務で大切なものにメニュー分析がある。
これは売上伝票をメニューごとに毎日「正」の字で集計し、それを一ヶ月分一枚の表に転記し、縦横集計する。
そして出数での比率と売上金額での比率を出し、高い順に並び替えた表も作る。
コーヒー、ジュース、デザート、パスタ、カレーライス、ランチ、サンドイッチ、ケーキ等の部門ごとの集計も必要。

ABC分析はその比率上位だけをくくる、それはそれは膨大な作業が必要で、毎月数日の徹夜作業をすることになっていた。
修行時代は、コーヒーの味で苦しみ、徹夜作業が続き、厨房の中をねずみやゴキブリが走り回る幻覚に襲われる毎日で家に帰るころは足を引きずりあるく苦しい苦しい日々であった。

そんなことが一枚表を作るだけで、すべての作業が数分のうちに完了し、印刷までできてしまう。
そのうち、レジに打ったデータをパソコンに取り込めればもう手作業は不要となることに気がついた。
レジだけでの簡単な分析はできるのであるが、それをパソコンにデータ転送しようと思い立った。
テスターで、その回路を調べ、データの電圧変化を知り、技銃的に方法はあるはずだとわかったが、当時データ転送はRS232Cポートからパソコン間転送はやっていた。

早速レジメーカーのカシオの大阪営業所に行き、そのデータ転送の方法を聞くことにした。

ところがこちらは技術的に無知、相手は面倒で金にならないことはやりたがらない、

「プロトコルは何でやります?」ってバカにしたような言い方・・・
僕はそれが何のことかさっぱりわからず。
「CCIT2に準拠して・・・」とかありったけの専門用語を並べるがしろーと丸出し・・すごすごと帰るしかなかった。

そこで通信技術を勉強することにして、日本橋に走り、ありったけの本と、5本ほどの通信ソフトを買って来る。
でも時代はデータ転送の黎明期で、ほとんど汎用機向けで難解で、英語の仕様書であったり全く使えないものばかりであった。
だがその中で一本のソフトに出会う。
それが「VERSAーLINK」だった。
これは国産の非常に単純で、プログラムもわかりやすく当時の非力なパソコンに乗せても軽く通常の電話でのデータ転送には十分であった。

このソフトで勉強をし、やがて当時ごく一部のマニアが始めだした草の根NETと呼ばれ、BBSと表記されるようになる電話回線を使った掲示板に行き当たる。

当時通信速度も遅く、通信エラーが頻発するのだがデータ転送が実現して行き、やがて店舗本社間のデータ転送に成功していく。

その後その通信ソフトの開発し全国に広めていく技術者と別のところで奇跡的にめぐり合うことになり、パソコンの世界で生きていく勇気をもらい、今も年に数回は飲み、これからの夢を語り合う仲になっている。

人生のプロトコル(手順)も不思議が一杯で素敵だ。

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2006.09.07

パソコン伝説1 ~僕達の挑戦~

個人で使うためのパーソナルコンピューターが作られたとき、メーカーもこれをどのように使っていくかはよくわかっていなかったらしい、これを知った大学生だったビルゲイツたちは寄宿舎を会社所在地にしたて、BASICプログラムを動かせるように一週間で開発し売り込みに成功、今の世界一のマイクロソフトの礎を作った。

いまやパソコンは個人にも企業にも必需品となり、文字を覚えるごとく使いこなせる時代となった。
思い返せば僕達の会社もいろいろな冒険をしながらここまでやってきた。

ひゅんひゅんひゅんひゅん
1980年ごろ・・・・・会議にて・・・・・

「けんちゃんがバイク事故で足を骨折して人のやりくりが大変である、みんな事故には注意してください」
その1週間後・・かめさんがスケートでこけて腰を骨折・・・・わーーーーーーーーー

数ヶ月の入院ということで、シャープから発売された関数電卓にBASICが動かせるものが発売されたのでこれを買って見舞いに行く・・・

「おーー元気?・・・」
「元気ない・・・」
「はははは、まあゆっくりしたらええで、給料も渡すからその代わりこれ勉強して」

当時メニュー分析や棚卸は昔ながらの手作業の力技、毎月2,3日徹夜に近い仕事になる、ポケコンでこれができたら便利。

数ヵ月後彼はBASICをマスターして退院してきた。
早速店の伝票の整理・・・まあメモリーやCPUの性能は貧弱で入力に手間もかかるのだが、表集計は正確。
そして1981年伝説の国産初16ビットパソコンNEC PC9801Fが発売される。
業務にも使えるパソコンの時代がやってきた。

早速幹部社員は9801、平社員には8801が支給される。
店は9801で店舗管理が始まる。

表計算はMSDOS(エムエスドス)で動くマイクロソフトのマルチプランだ。
当時JCALC,CCALC等いろいろなフトが入ってくる。

そのうちマルチプランがマクロプログラムを搭載し、基本的な業務システムが作れるよううになる。
日本中のパソコンはマルチプランが標準表計算ソフトになっていく。

時代はやがて草の根ネットの時代に入っていく・・・・電話回線を使ったデータ配信である。

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