カテゴリー「■ひな菊は野に咲け」の15件の記事

2008.07.08

ひな菊は野に咲け 15

人が生きるということは、誰かに求められたわけではないんだ・・・・・・
気がついたときから、とか、そう思ったわけでもない・・・・・
その前から、生まれるずっとずっと前から、僕たちは生きていたんだ・・・生まれ変わりとか、前世とかそういうことではなくて、命そのもの・・・・・・ずっとずっと太古からそれは連綿と受け継がれてきた・・・・・誰一人例外なく。

あきこねえさんが亡くなって、ふみこねえさんと僕は、途方にくれていた・・・お姉さんであったわけだがお互いの親戚に対しての立場が微妙な関係にあったわけで、残された家庭に何かができるという立場がなくなっていたといえる。

だが残された子供たちは、それぞれのお嫁入りのときふみ子ねえさんに母親代わりに指名してきてくれて、僕たちはあきこねえさんの人生が素敵だったと思えた。


悲しいことが多かったかもしれないけど、僕たちにとって確かにお姉さんだったし、素敵な女性だった。

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2008.05.27

ひな菊は野に咲け14

あきこねえさんの二人の子供たちは明るく聡明で、素敵な子供たちに育っていった。
それはふみこねえさんの二人の子供たちも同じく素敵な子供たちであった。

僕が長く結婚もしないで好きなことをやっていたけど決して家庭を持つことには憧れを失わないでいたことと無縁ではない。

あんな素敵な子供たちを持てるのなら結婚も素敵だろうなあって思っていたのだ。
そしてその夫婦の家庭もきっと素敵なものに違いない・・・・そう思って。

だんなさんは働き者で大工の棟梁として名をあげついに豪邸を建てる。
誰の目にも人生の勝利者と見えていた。
そして、水商売の女性との浮気・・・・世間にはよくあることだ。

ねえさんははじめそれを一人で抱えていた・・・、だんなさんはおぼれていった。
ねえさんは疲れていった・・・・・人生をひたむきに生きようとする心は得てしてそのような罠にはまる。

そんな時、惣七がなくなり1年後サヨが亡くなる。
あきこねえさんは、心のよりどころをなくし、病んだ。

ふみこねえさんはそのことでいろいろ心を砕いたのだが不幸はそんな弱い心を狙い撃ちしてくるものなんだ。
精神を安定させるための薬はさまざまな副作用をもたらす。その整腸剤に時の特効薬キ○ホルムが使われる。

やがて手足がしびれ歩くのが少し不自由になってくる。時がくだって判明するところのス○ン病として一次薬害の被害者となっていく。

それは当初まったく薬害とはとらえられていなかった。
著名学者のウイルス説が受け入れられて、キ○ホルムはづっと使われていった。

やがてそれは薬害訴訟として掘り起こされあきこねえさんはその患者リーダーとして運動の先頭を切ることになる。

当時はそのような運動は反社会的と捉えられたりする時代であったから、家族からも孤立することも多かったようだ。

その年の冬は寒かった・・やがて野に春の草花が芽を吹き始めたころ、僕はふみ子ねえさんから電話を受ける・・・

「あきお・・あきお・あきこねえさんが・・・あきこねえさんが・・・・・・」

わけもわからず僕はかけつけ通夜の席にいた・・・やがて新聞やテレビ局の取材陣が押し寄せる。

マスコミの取材の応対係をする僕はやがて事態を呑み込む・・・・ああねえさん・・・・なんてことだ・・・・・・
ごめんよ・・・助けられなかったんだよね・・・・

次の日の朝刊に一面トップ6段抜きで報道される事態となり、やさしいあきこねえさんに闘うのは無理だったんだと僕は初めて理解した。

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2008.04.07

ひな菊は野に咲け13

あきこねえさんは、素敵な女性だった。
中学生になって思春期を迎えていた僕にとっては姉というよりも突然現われた素敵な人って感じであったに違いない。

だんなさんは工務店の作業所などを渡り歩き、大工として腕を磨いていった。
仕事のないときは親父が我が家の増築の仕事をしてもらって生活を支えていた。

ひたむきにがんばるやさしい義兄はその仕事振りを認められ大きな工務店の現場監督に気に入れられて仕事が増えていった。

やがてアパートを借りて我が家を出て行った。子供たちは僕を兄ちゃんとしたい僕もそのような家庭に憧れたびたび訪れては時をすごすことが多くなっっていった。

あきこねえさんも幼いころからの寂しい境遇を忘れさせてくれる一家団欒の生活を心から喜びその母親が近くで自分を支えてくれているという思いに穏やかなときをすごしていたのだろうか。

そのころ「ふみこねえさん」が行商の仕入れでたびたび訪れていた洋服あつらえの店の経営者に見初められとついで行った。

親父は心から良縁に喜び泣いた。

海に流れていた流木の中にその新居の階段の手すりにぴったりの5メートルはある長い木を大阪港から天王寺まで半日かけて歩いて運んでいったのもその喜びがみんなに伝わった。

本人はそのときの思い出をよく口にしていた。

「棒を肩に担いでいったんやけど・・心斎橋を歩こうと思ったんや、流れに沿って歩くのは簡単やったけど途中で引返したんや・・・棒を横に担いだままぐるっと回った・・・ほんなら通行人も一緒にぐるっと回りよった・・はははは」

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それをいつも聞かされては僕たちは一緒に笑いその幸福感を受け取っていった。

ふみこねえさんは親父がなくなったあともそんな親父の思い出を僕と語るとき二人で笑いながら泣いたものだ。
 
 

あきこねえさんもそんな親父の優しさにつつまれ大阪の生活に慣れ、素敵な子供たちをやさしくやさしく育てていった。

だんなさんはやがて大きな全国的な工務店にその確かな技術力を認められ、いつしか50人もの大工さんを抱える工務店となり、全国の建築の仕事で忙しくなり、皇居、や御所などの名建築も手がけるひとかどの大工として認められていった。

人生はあざなえる縄の如し・・・・とはそのようなことを言うのかもしれないが、本当はもっともっと現実は不思議が一杯なのだった。

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2008.03.18

ひな菊は野に咲け12

太平洋戦争が終わった・・・

惣七にとってはもう爆弾が落ちてくることはなく家族で暮らせる。
築港の海辺に掘っ立て小屋をつくり家族4人で暮らすのだ・・・その喜びは何物にも変えがたいことであったにちがいない。

みんなが貧しく助け合って生きていた。

裸電球の3畳のちゃぶ台に部屋で麦ご飯と一汁一菜のあたたかい夕餉はどこの家にもあった。
家族の絆というものは、そんな時を過ごすということが大切だと気がつくのはいつも人が年老いてから気がつくものなのだろうか。

未来に何かが待っているということなんかではなく、今をひたすら生きることで未来が作られていくということもやはりさまざまな悲しみを乗り越えてわかってくるものなのかもしれない。


文子は中学校を卒業して両親の行商の仕事を助けた。
大阪港に出入りする貨物船に日用品を運び込み通路で販売する。
明るく、よく働く文子はいつしか船乗りのアイドルとなっていった。

日本に初めて船乗りの練習船として作られた大型帆船日本丸が大阪港に停泊し訓練を続けていたときは特に若者が多くてかわいがられた。

やがて訓練を終え外洋へ船出するとき、文子は惣七にせがみ当時やっと手に入れた「ポンポン船」で大阪港を出て行く日本丸を関門近くまで送っていった。

練習生たちはそれに気がつき、マストに登り並んで敬礼をし、「フレーーフレーフミコ!」と叫んだ。
それは日本で始めて行われた「登檣礼(とうしょうれい)」として歴史となっていった。
そのことを文子は年取るまで思い出話として子供たちや孫へ語るときいつも少女のような笑顔をしたという。

昭夫は焼け跡から復興する町でガキ大将のもと遊び、隣町の連中と喧嘩をしてすごしていた。

やがて小学校6年生になり、外で遊ぶことも少なくなってきたころ、「あきこねえちゃん」が現われた。

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2008.02.16

ひな菊は野に咲け11

太平洋戦争が終わった・・・・・それは誰が始めて誰が負けたのか・・・・・・
歴史の中ではそのことが重要なこととして捉えられてはいるが、野に咲く草花にとってはいかほどの意味があろうか。

空からの機銃掃射がなくなり、爆弾の恐怖がなくなったというそのことだけが確かに誰もが感じていたに違いない。


惣七は山の上の本家に家族を預け、一人大阪で日雇いの仕事を続け、家族を呼び戻すために懸命に働いた。
その間、サヨは山の斜面で畑仕事で汗を流した。

継母一人ですごしていた本家に惣七が、家族を連れて戻ってきた、跡取りが戻ってきたと村中が喜んだという。

しかし、継母はサヨを辛く当たるようになる。

づっと後の時代に昭夫がわが子をその本家に連れて行ったとき、急峻な段々畑にある大きな岩の陰でサヨがいつも泣いていたと村人が語った。

本家を継ぐものと思っていた正秀がフイリッピン沖で戦死し、惣七は自分が残らなければ本家は途絶えるということはわかってはいたが一度捨てた故郷・・・戻るわけには行かなかった。
あるときサヨが惣七に言う。

「おとうさん・・・どんなに貧乏でもいい、みんなで大阪に戻りたい・・・」
泣くサヨを見て惣七は再び故郷を捨てる決意をする。

しかしなんとしても親父文平の残した本家は守らねばならない・・親戚じゅうに頭を下げ本家に養子に来てくれるものを探すのだがみんなが恐れる家に行くと首を縦に振るものはなかなか現れなかった。

それでも惣七はあきらめず遠い親戚を訪ね歩き土下座をして乞うその熱意にこたえて「サヨコ」が養女になることを承諾する。


そしてサヨコに養子婿を向かえ、なんとか本家が残ることを確認して、惣七は家族で住む我が家を自分で建てようと思いつき、大阪のえべっさん近くの日本橋五階百貨店をぶらついては大工道具を買って、安治川に浮かぶ材木をひらい、焼け跡の廃材をあつめ市からわずかな賃借料で土地を借り一人で掘っ立て小屋を立てる。

小屋が完成し、妻子を呼ぶ・・関西汽船で天保山についたサヨと文子、昭夫は迎える惣七に抱きついたと言う。
4人で荷物を抱えて我が家へ向かう・・・それは惣七にとっては晴れがましいときであったに違いない。
やがて、千舟橋に差し掛かり。安治川対岸の日立造船から聞こえる始業の合図のサイレンを聞いて幼い昭夫が
「あーーーっ空襲警報っ」って叫んだと言うことは家族が時々思い出しては笑いあう出来事であった。

橋を過ぎるとすぐにその小屋はあった。
粗末な引き戸を開けると、そこには土間があった・・・そしてその土間に一つのやかんがぽつんとおかれていた。
それは昭夫の原風景として年をとるごとによみがえってくるセピア色の映像となった。

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家族4人でそのやかんを眺めたとき、惣七はひたむきに生きてきたことの誇りを感じていたに違いない。
それは半世紀以上もも過ぎた時空を越えて、その息子や孫がタイムマシンにのってその瞬間に何度も戻ってきて共に眺めていたことなど知らなかったに違いないのだけど、そのときみんないたよ。

長い長い人生の中で本当に大切なことは、人は人と過ごすと言うことだ・・・年老いた昭夫がいつも口癖のようにつぶやく言葉の原点がここにあるのかもしれない・・・・たった一つのやかんにそれはあるのだけど・・・・わかりますか?・・・・・
はははは・・・・草花はひたむきに野にあって満足・・・・・・・・・はははは・・がんばれ・・・・はははは。

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2/17 終戦時の惣七の行動で少し思い違いがあったので修正。
惣七は本家に戻り働いたのではなく、妻子を預け、一人大阪で港湾労働などをして家族を養うために金を貯めていた・・。

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2008.01.25

ひな菊は野に咲け10


惣七が生まれ育った山河

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ひな菊は野に咲け9

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サヨ、が生まれ育った海辺。

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2008.01.23

ひな菊は野に咲け8 系譜

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2008.01.13

ひな菊は野に咲け 7

太平洋戦争が始まって翌年サヨは男子を産む。
文子が生まれて8年後のことで、惣七は3日間祝杯をあげ続けたという。

底辺をはいながら生きてきた二人にとって男児をもうけるということがいかに大きな出来事であったかということであった。

その間も大日本帝国軍は連戦連勝で大東亜共栄圏を着々と広げていた。
昭和の時代一番世界の覇者に近いと民衆は思わされていた時代だった。

「昭夫」となずけた。
惣七は喜びで飲み続けてその後2日間倒れ死地をさまよう。
生還して酒タバコを断ち我が子のために懸命に働き貧しいが笑いの耐えない家庭をきづいていった。

惣七一人が本家の血筋をつなげたという誇りが「俺は勝利者だ」という口癖となっていった。

太平洋戦争は長引いていった。
真の国力のなかった日本はたちまちいきづまった。

徐々に庶民の間にも負けるのかもしれないという思いが蔓延していった。

文子が鹿児島坊津沖を巨大戦艦の大和が南下していくのを見るころ、サヨは文子を呼び戻す。
敵国が日本上陸して殺されるのなら、家族一緒にいたいという思いであったという。

サヨの妹の「はや」は昭夫と同じ月に生まれた「勝宏」と文子を連れて3日かけて大阪までやってきてその後みんなで徳島の惣七の本家を頼って疎開する。

戦地に赴いた「正秀」やはやの夫は共に靖国のみ柱となって帰ってくる。
はやはその後そのまた妹「スエ」を呼び徳島山奥に住み着くことになり鹿児島に生涯帰ることはなかった。

やがて日本は敗戦を迎える。

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2007.12.22

ひな菊は野に咲け 6

サヨが住む魚行商のおばあさんの2階部屋に惣七は転がり込んだ。
安治川の日立造船で日雇いを続けその飯場(宿舎)で大きなばくちをして一人勝ちをする。
そういう場合、負けたものが取り戻すため負けるまでそこにい続けることになるのだが、惣七は一夜でそこを抜け出しその金を元手に、バラックの飲み屋をする。

大阪港に出入りする貨物船の客が雑貨品がなくて困っていることを知り、手漕ぎの伝馬船を買って雑貨品を運び港内の停泊する貨物船に上がり通路に並べて販売をする。

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惣七とサヨは懸命に働いた、やがて女子を産む・・惣七は「文子」となずけた。
父「文平」(ぶんぺい)の一字をもらった・・・それはその血筋を受け継ぐものであったのだが、出来るのであれば
「文七」とでもなずけたかったに違いない、・・・そういう時代であったのと、自分だけが嫡男として受け継ぐ可能性を思っていたのだろうか。

しかし、その後男子を授かることはなく、その日暮らしの生活が続き40歳を越えて酒に溺れる日が増えていった。
時代は日中戦争、日独伊三国同盟、と続き、そして1941年12月太平洋戦争が勃発した。

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2007.11.22

ひな菊は野に咲け 5


惣七が戦争から戻ってきたとき、森田の娘は亡くなっていた。
その後彼は黙々と木を切り、きんまに乗って木を運んだ・・・。

その働きは誰の目にもすばらしく、誰もが家を継ぐものと思っていた。長男は出奔し、三男正秀はまだ小学生。
しかし継母はすべての実権を握ってますます過酷な仕打ちを前妻の子供たちにする。
家がほしいから働くんだろうと言いふらせらることに絶えられなくなり惣七は故郷を捨てる。

着の身着のまま家を後にし切り立った山の斜面の一人がやっと通れる細い道を下っていくとき学校から帰ってくる小学生の妹マツノと正秀に出会う。

「あんにゃんどこいくの?」

「あー川口までいってくんかんな・・・おふくろ大切にしろよ!」

人をうらまずただひたむきに生きた男であった・・・・・・

その後残されたマツノと正秀は、家を出て遠い親類宅をたずねる、しかしみんなが貧乏な時代、馬屋で生活するが食事も与えられず、米ぬかをすすって生き延びる、
正秀は「ねえやんおいしいで」といって食べた・・・・ずいぶん時代がたった後マツノがこの話を昭夫にしたとき号泣した。

正秀はその後蛍雪の苦学をし部屋は専門書で埋まっていく、誰もが彼が未来を築いてくれると信じていた。
そして太平洋戦争で召集され輸送船に乗ってフィリッピン沖で魚雷に撃沈され海の屍となった。

戦後、生き残った戦友が、山奥に尋ねてきて、その最後を聞いて、マツノだけが泣いた。

マツノが嫁いで、継母一人残った家は遠い親戚の娘を養女にとり、養子を迎えて、男系の血筋をなくす。

故郷を捨てた惣七はその後、船乗りとなり世界を回り船を下りて日雇いの仕事を渡り歩き、酒とばくちに明け暮れる。

ある日、魚の行商のおばあさんが宿舎に来て親しくなる。

「あんちゃん、所帯持ったほうがええ、働き者のいい子がおるよ」

時代は昭和に入り、中国を舞台に列強のしのぎあいが始まっていた。

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2007.11.20

ひな菊は野に咲け 4

徳島の山奥・・深い深い急峻な山の頂近くの家に惣七は文平の次男として生まれた。
平家の落人がその源流浅岡家の分家され文平は一帯の山を治めていた。

文平の一人目の妻は一男をもうけたが本家筋の跡取りとして養子にやられたあとその妻は病死する。
あわてて後妻を娶り、長男、次男惣七、長女マツノ、3男正秀をもうける。
跡取りは磐石と思われていた。

しかしその妻も正秀を産んだあと、病死する。
亦も文平は後妻をとる。そのあと文平は没し、子のない後妻がその財産を受け継ぐ。

そして前妻の子供たちにいわれのない仕打ちを始める。
長男は北海道に出奔し一家を構え成功を収めるが子供ができずその血筋は途絶える。

残る次男惣七はひたすら働き一家を支える。
村で一番のきこりとして聞こえやがて山二つ越えた村の庄屋の森田の娘と恋に落ちる。

村で評判となるのだが、時代は第一次大戦が終わり中国の租界政策が世界の紛争をきたし日本軍のシベリア出兵となり惣七は縫製兵として召集された。

報われることのない進軍を経験しやがて任務を終える、村へ帰ってきた惣七に知らされたのは森田の娘が亡くなったという知らせだった。

その後ずいぶん時代が変わり彼が家族を持ち、何度か山奥の村へ自分の息子昭夫を連れて帰ったりしたとき誰にも知らせず一人山を二つ越え森田家の墓へ行っていたことを息子が知ったのは惣七がなくなった後のことで、

惣七がなくなっても泣くことがなかった昭夫は、そのことを知って、野辺に咲く花がいかに大切かを知り、親父がいとおしくて、初めてさめざめと泣いた。

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2007.11.17

ひな菊は野に咲け 3

明治の末期、鹿児島の西南端の入り江の村に「サヨ」は育った。
鑑真がたどり着いた古い港のむらでそのゆかりの像がサヨが通った丘の上の小学校にある。
学校から帰ると、急な石段の道を30分かけて浜から湧き水を運ぶのが役目だった。

石屋だった父、その3女1男の長女として生まれたサヨは幼い時から一家を支え働いた。
小学校を出てすぐサヨは大阪の地方巡業の杉村劇団の家にお手伝い、後チエ子リリ子劇団と名を変えることになる二人の幼子の乳母として住み込むこととなった。

当時は貧困のため女は「口減らし」として都会に出されることが普通のことだった。
やがてサヨはは大人となり、国に帰り親が決めた指宿の農家へ嫁に行く。

当時は働き手、跡取りを作る・・そんな時代だった。
やがて2女を産むが男子ができなくて、だめな女としての烙印を押され、子供を残して実家へ帰される。

傷心のサヨは実家で黙々と働く、その長女の幼いあきこは母親が恋しく家出をしては村を訪ねてくる。

なんども迎えに来るごとあきこはサヨにすがって泣いた。

連れ戻されるあきこを岬の峠まで送りもと来た道を戻る途中、坊の岬の断崖の上でサヨは涙かれるまで泣いた。

サヨが子供を呼び戻していると言いふらされるとともにサヨは故郷を捨てる。
サヨはその後生涯故郷の地を踏むことはなかった。

一人また大阪に着の身着のままのまず食わずで3日かけてたどり着く。

杉村家にいたときにわが子のようにやさしくしてくれた出入りの魚の行商のおばあさんをたずねる。

おばあさんはその家の2階に住まわせてくれて、近所の着物の縫い物の仕事を取ってきてくれてひっそりと生きていく。

時代は第一次世界大戦が終わった昭和のはじめ、そのころ惣七は徳島の山奥で木を切っていた。


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2007.11.11

ひな菊は野に咲け 2

僕の家族に突然出来たあきこ姉さん・・ただ姉さんだよって聞かされしばらくわけわからなかった。

あきこねえさんは控えめで、やさしく、懸命に家事をこなし、赤ちゃんを育てた。
そのうちそのだんなさんという方が家族に増えた・・・僕にとっては義兄となる。

兄さんはお袋の田舎の鹿児島にいて大工をやっていた。
あきこねえさんと出会い、結婚子供が出来たところで一旗あげようと3人で着の身着のまま出てきた。

とりあえず生活のめどが立つまでここに住むことになった。
兄さんは朝になったら出かけて仕事を探しに行く。

帰ってこないことも多かった。関西中を仕事を探し、工事現場に飛び込んでは監督に掛け合いその日の仕事をもらい、うまくいけばその宿舎に泊まりこんでいた。

中学生だった僕はそんなことも知らずにただ突然あらわれた家族に戸惑っていた。

とうとうあるときお袋にたずねた。

なあ、僕あきこ姉ちゃんの思い出なんもないねんけどなんで?」

お袋はその生い立ちを話し出した。
それは悲しい物語だった。

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2007.11.04

時空魔神エスカル号の冒険 ■ひな菊は野に咲け

昭和30年代は戦後の荒廃からやっと立ち直り新しい時代の息吹が吹き出していた。
僕が住む大阪の港湾地帯も人口が増え、活況を見せていた。

僕は中学生となっていた。
ある日学校から帰ると、見知らぬ女性が乳飲み子を抱いて茶の間でお袋と話していた。

「ただいまあ・・・」

「おかえりいい・・あーーあきお あきこ姉ちゃんやで」

「・・・えっ?!・・・・ ?・・・どうもぉ・・・・」

奥の間にかばんを投げ出し、茶の間に戻ってやっと我が家に来たテレビのチャンネルをまわし鉄腕アトムを見る。

・・・ねえちゃん?・・・・なんでやろ?・・・いままでそんな話聞いたことないで・・・・姉ちゃんは”ふいこ”だけやん・・・・・・・・どないなってんねやろ・・・・・・・・・

ちらちらとそのあきことかいう女の人を見る。
30ぐらいだろうか化粧などしてなくて優しそうで聡明そうな美しい女性だった・・・・

乳飲み子のかわいい女の子を抱いていた・・・なんかわけわからん・・・・・・

僕の家族が突然二人増えた・・・大人の事情などまったく理解することも出来ない子供の僕にとってはなんとなくそうなんだってわけもわからず受け入れていった。

僕にとっては姉が出来たというよりも、かわいい妹が出来たということのほうがうれしかった。


つづく


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